わたしはひとのかよわぬ森の奥に住まいを見出し、孤独を伴侶として静かな生活を送っていたが、あるとき孤独の執拗な愛撫に疲れを感じ、また静寂に包まれた森の奥にも嫌気が差して、新たな住まいを村のはずれに探し求めた。そこはひとの住む場所で、近くにはひとの気配と雑音があり、前の道にはわずかながらの往来があった。
そこに移り住んでから、わたしは向上心に促されて自分を変えようと試みた。茫洋としてときを過ごすことをやめ、生活者として生活を改め、勤勉であろうと努力した。そのための意志に不足はなかった。悲しみとともに朝寝に耽ることもなくなったし、夜を徹して思索に耽ることもなくなった。結果はすぐに実感に現われ、時の経過は意義を備え、日々は意味によって満たされていった。ところが間もなく孤独が森の奥からわたしを追ってやって来て、重たい影を引いてわたしに寄り添い、陰気な静寂でわたしを再び包み込んだ。たちまちのうちにわたしの意志は損なわれた。わたしは孤独に追い詰められて朝寝に耽り、夜を徹して思索に耽り、孤独に抗するために出会いを切望するようになった。
わたしは寝床から起き上がって身支度をととのえ、出会いを探し求めて村を歩いた。視線をめぐらし、路上の動きに注意を払い、ときには戸口に開いた隙間の奥に目を凝らした。そしてこれはと思うときには後をつけ、意を決したときには誠意を込めて声をかけた。だが報われることは一度もなかった。わたしにはいかなる不足もなかった筈だが、出会いはなぜかわたしを遠ざけ、わたしを嫌って逃げ続けた。近づいていくと背を向けて立ち去り、背後から忍び寄ると不意に気づいて悲鳴を上げた。誠意に対する見返りには黙殺が戻され、真心を込めて書き上げた手紙はことごとくが破り捨てられた。何度となく同じ場面が繰り返され、わたしははじめにもどかしさを味わい、続いて激しい怒りを感じた。
目には見えない奇怪な原理が、あきらかにどこかで働いていた。そうでなければ、わたしが拒まれる理由は一つもなかった。わたしよりも容姿の点で劣った者がすみやかに出会いを獲得する一方で、わたしは出会いを得られずにいた。わたしよりも資力の点で劣った者がすみやかに出会いを獲得する一方で、わたしは出会いを得られずにいた。それだけではない。わたりよりも知力の点で劣った者がすみやかに出会いを獲得する一方で、わたしは出会いを得られずにいた。
謎を解明しようと考えて、出会いを得た者に訊ねてまわった。
ここにはいかなる秘密が隠されているのか。
そう訊ねると、わたしよりも容姿の点で劣った者は驚いたように口を開け、秘密はないと言って首を振った。資力の点で劣った者は勝ち誇ったような笑みを浮かべ、知力の点で劣った者はいきなりわたしに襲いかかった。
わたしは小さな傷を負って家に戻り、堅い寝床に横たわり、孤独に抱かれて考えに耽った。すると新たな可能性が頭に浮かんだ。容姿の点で劣っていると見えた者は、わたしの前で容姿を偽っていたのかもしれなかった。資力の点で劣っていると見えた者は、わたしの前で資力を偽っていたのかもしれなかった。そして知力の点で劣っていると見えた者は、わたしの前では知力を偽っていたのかもしれなかった。一瞬、真理を見つけたような気がしたが、わたしのためには、それが真理であってはならなかった。それにそもそも、ありそうになかった。
わたしはなおも答えを探し求めた。わたしは苦悩し、わたしの苦悩の大きさを戸口の隙間から見たあるひとが、とある家の場所を示してこのように言った。
「その家の戸を叩きなさい」
そこでわたしはその家を訪ねて戸を叩いた。なかから現われたのは頬にひげをたくわえた男で、不足を補う技術に長じていた。わたしは問題を男に打ち明け、男はわたしの問題を解決した。
「神に祈りなさい」と男は言った。
男の説明によると、わたしは多くの点で足りていたが、信仰だけは不足していた。信仰を補うためには、祈らなければならなかった。わたしは荒れ野へ出かけて最初に見つけた丘にのぼり、大工が不要と見なした石で祭壇を築いた。そして食と水を断って三日のあいだ祈りを捧げ、期待に胸をふくらませて村に戻った。だが何も変わってはいなかった。
わたしは再び戸を叩いた。頬ひげをたくわえた男がなかから現われ、わたしは問題を男に打ち明け、男はわたしの問題を解決した。
「羊を捧げなさい」と男は言った。
男の説明によると、わたしの祈りは長さの点で足りていたが、捧げ物が不足していた。祈りを補うためには捧げ物を加えなければならなかった。わたしは市場へ出かけていって羊の値段の交渉をした。売り手は法外な値を言った。資力に不足はなかったものの、それでも羊の値段はわたしの支払い能力を越えていた。頑として譲ろうとしない売り手を市場に残し、わたしは三度目の助けを求めて戸を叩いた。
「金を稼ぎなさい」と男は言った。
男の説明によると、隣の村の葡萄畑で葡萄の取り入れが始まっていた。畑の持ち主は多数の働き手を必要としており、好条件で募集をおこなっている。採用されるためには隣村の広場に立つだけでよく、経験や資格が云々されることは決してない。だが、と男はわたしに言った。朝、広場に立ってはならない。朝に採用されれば朝から日没まで働くことになるからだ。また、と男はわたしに言った。昼に広場に立ってはならない。昼に採用されれば昼から日没まで働くことになるからだ。
わたしは隣の村を訪れ、日没の間際に広場に立った。そして日没までの時間を働き、多くの働き手のなかからまずわたしが給金を得た。それを手持ちの金とあわせると、羊をあがなうのに十分なだけの額となった。続いて昼から働いていた者たちが給金を得た。この者たちには、わたしが得たのと同じだけの額が支払われた。最後に朝から働いていた者たちが給金を得た。この者たちにも、わたしが得たのと同じだけの額が支払われた。騒ぎが起こり、多くの働き手が怒りを叫んで葡萄畑の持ち主を囲んだ。朝から働いた者たちは、朝から日没まで働いた者が日没の間際から日没まで働いた者と同じ額を受け取るのは不公平であると主張した。昼から働いた者たちは、昼から日没まで働いた者が日没の間際から日没まで働いた者と同じ額を受け取るのは不公平であると主張した。
「いけないのか?」と葡萄畑の持ち主は言った。
公平ではない、と働き手たちが叫びを返した。
すると葡萄畑の持ち主は自分を指差し、自分は公平ではない、と言った。
翌日、わたしは市場で一頭の羊をあがない、引き綱を引いて荒れ野に出かけた。祭壇を築いた丘にのぼり、羊を殺して各部に切り分け、臓器と脚を水で洗った。祭壇に薪を積んで頭と脂肪をそこに並べ、残りをまわりに配置した。そして薪に火をつけて肉をあぶり、香りが立ちのぼるのを待ってから神に向かって祈りを捧げた。
空は雲で覆われていた。祈りを続けていると頭上はるかに見える雲のかたまりを白く輝く光が貫き、その光の源となるあたりに小さな黒い点が現われた。見守るうちに黒い点は天上から注がれた水のように長く尾を引く線となった。そしてそれはすぐに梯子の形となって猛烈な速さで虚空を走り、わたしの鼻先をかすめて大地に達した。それはひとの手による物ではなかった。梯子の先端にえぐり取られた丘の表皮が褐色の埃となって舞い上がった。わたしはひざまずいて祈りを続けた。祈りを続けながら、わたしはその淡い光に包まれた梯子をおそるおそるに見上げていった。梯子を伝って地上を目指す二つの影をかなたに認めた。わたしに向かって一直線に近づいてきた。わたしは恐怖のとりことなって頭を垂れ、地面を踏む音を聞いて顔を上げるとそこには二人の御使いがあった。
前に立つ一人は小柄な男の姿をしていて、ゆるやかな白い衣をまとっていた。後に立つ一人は巨体を誇る男の姿で、屈強と見えるからだに獣の皮を巻きつけていた。小柄な御使いがわたしに近づき、手振りで立つようにと促した。わたしは震えながら立ち上がった。小柄な御使いの背後では大柄な御使いが背中から革袋を下ろして口を広げ、そこにわたしの捧げ物を投げ込んでいった。小柄な御使いは手を伸ばしてわたしのからだのあちこちを調べ、懐の奥からわたしの財布を見つけ出した。御使いは財布の中身を手に広げると、銅貨の一枚一枚をかじってその真贋をあらためた。それからわたしの銅貨を自分の腰帯にぞんざいに押し込み、わたしには空になった財布を投げてよこした。そして最後に蔑むような目つきでわたしをにらみ、わたしに背を向けて同僚の肩を軽く叩くと先に立って天へと続く梯子をのぼり始めた。大柄な御使いが革袋を背負って後を追った。御使いの動きはすばやかった。その姿は間もなく線上を這う点となり、いくらもしないで雲に飲まれて天に消えた。
驚嘆と恐怖をやり過ごすと、わたしには渦巻くような困惑が残った。何かを期待していた筈だが、起こったことは期待していたことと違っていた。すべての努力は不愉快な形で終わったのだという確信が募る一方で、目の前にそのまま残された梯子が次に起こる何かを期待させた。わたしは神に祈りながら待つことにした。しばらくすると御使いたちが梯子を伝って戻ってきた。御使いたちが立つのを見て、わたしはその場にひざまずいた。小柄な御使いがわたしに言った。
「神は嘉納された」
御使いの言葉を聞いて、わたしは口を開けたような気がする。そのわたしを小柄な御使いは蔑むような目つきでにらみ、背後の同僚に顎をしゃくって合図を送った。すると獣の皮をまとった大柄な御使いが飛び出してきて、わたしの前で毛むくじゃらの拳を握り締めた。逃げる暇など一瞬もなかった。わたしは顎を殴られ、自分の身長の二倍ほどの距離を吹っ飛んで、地面にしたたかに打ちつけられてはなはだしい痛みを味わった。脇腹を下にして横たわり、苦痛に喘いで肺腑を絞った。流れ出る涙で目がかすんだ。かすんだ視界の隅では小柄な御使いが先に立って梯子をのぼり、大柄な御使いがその後を追った。最後に梯子が引き上げられた。
わたしは痛みに苛まれながら、長い午後の時間を横たわって過ごした。ようやくからだを起こしたときには、すでに日が暮れかけていた。わたしは立ち上がって石で築いた祭壇を見つめ、夕陽に染まる空を見上げて御使いの言葉の意味について考えた。神が捧げ物を嘉納されたのならば、祈りは満たされなければならなかった。殴られた理由についても考えたが、皆目見当がつかなかった。やがて荒れ野のかなたに太陽が沈み、夜の闇が丘を包んだ。闇のなかで、わたしは背後に気配を感じた。ひとが住む場所ではなかったので、気配を漂わせるものがあるとすれば、獣以外にあり得なかった。だがその気配は、あきらかに獣とは異なっていた。恐ろしいものから喜ばしいものまで、いくつもの予感が胸をよぎり、期待を込めて、勇を鼓して、わたしはゆっくりと振り返った。
そしてわたしは探していたものを見つけ出した。声に出して神を讚え、暗がりの奥に目を凝らした。そこには一人の女がいた。目によって見たのではなく、心によって感じ取った。闇のせいで見えなかったのではない。仮に昼の光があったとしても目で見ることはできなかった。その女には目に見えるような形がなかった。肌もなく、肉もなく、骨も備えていなかった。臭いもなく、色もなく、声もなかった。血をかよわせる気配だけで存在していた。多くの点で不足があったが、それでもわたしは出会いを得た。美しいのか醜いのか、痩せているのか太っているのか、年上なのか年下なのか、そのいずれにしても確かめるすべはなかったが、それでもわたしの心は満たされていた。わたしが歩くと、女はわたしにしたがった。わたしが丘をくだると、女はともに丘をくだった。わたしは女を連れて村へ戻り、家から孤独を追い払った。
わたしが出会いを得たことはすぐに村中に知れ渡った。わたしは口を閉ざしていたが、村の者たちは気配によってそれと悟った。男たちが女を一目見ようと押しかけてきて、戸口をふさぎ、互いを押しのけ、首を伸ばしてなかを覗いた。あるいは軒先を肩に乗せて屋根を押し上げ、壁の上から覗き込んだ。
姿が見えない、と男たちは口々に言った。どこにいるのか、と一人の男がわたしに訊ねた。わたしは部屋の隅の、女がいる場所を指差した。やはり見えない、と男たちは口々に言った。男たちはしきりにいぶかしんだ。見えないからには訊くしかない、と男たちの一人が言った。わたしは女の容姿や年齢、名前といった答えられないことを訊かれるのではないかと心配した。
その女は、と早速壁の上から訊く者がいた。だが男が口にした質問は、わたしが心配していたようなものではなかった。その女は、と男は訊ねた。毎日、朝と夕に水を汲むのか。わたしが答えに詰まっていると、続いて別の者がこう訊ねた。その女は、かまどに火をおこして料理をするのか。その女は、とまた訊ねる者がいた。伝統の織物ができるのか。その女は、とさらに訊ねる者がいた。繕い物ができるのか。その女は、とまだ訊ねる者がいた。家のやりくりができるのか。その女は、と厚かましく訊ねる者がいた。夜の務めを果たせるのか。ほかにもこう訊ねる者がいた。その女は洗濯ができるのか。
何もできない、とわたしは答えた。
いるだけか?、と男たちはわたしに訊ねた。
そのとおりだ、とわたしは答えた。
男たちは口をつぐんだ。戸口を背にして一人の老人が口を開いた。村の長老と見なされている男だった。
「もしそれが事実なら、これは悪い前例となるに違いない。あなたは出会いを得たことでいまは喜んでいるかもしれないが、出会い自体はすべてのことの始まりにすぎず、すべての問題は出会いの後で出現することになっているからだ。あなたが言うように、その女は朝と夕に水を汲まない、かまどに火をおこして料理をしない、織物も繕い物もしない、家のやりくりもしないし夜の務めを果たさない、その上に洗濯もしない、ということであれば、それは問題となるであろう。我々はそのような女を決して女とは認めないが、一方、女たちは女の悪しき性によってそれもまた女であると認め、いるだけでよいのであればそれ以上の楽はないと考え、まさにその考えによってあなたの女の行動に学び、村に損害を与えようとたくらむであろう。考えるだに恐ろしいことだ。それだけではない。子供というのは母親の行動から様々なことを学ぶものだが、母親が行動によって村に損害を与えるのを見たら、いったい子供たちはそこから何を学ぶことになるであろうか。これもまた考えるだに恐ろしいことだが、行動によって村に損害を与えることを学ぶのである」
恐ろしい、と男たちは口々に言った。
そして村の男たちはわたしの家の戸口で協議にかかり、投票によって決まったことをわたしに伝えた。わたしは女に女としての正しいふるまいを教えなければならなくなった。ただ教えるだけではなく、教えたことを実践するように求めなければならなくなった。
わたしは四度目の助けを求めて、頬ひげをたくわえた男の家の戸を叩いた。
「姿を与えなさい」と男は言った。
男の説明によると、女にはまず姿が不足していた。教えるだけであれば必ずしも姿は必要としないが、実践を求めるためにはどうしても姿が必要であった。だが、いかに不足を補う技術に長じていても、この圧倒的な姿の不足を補うことはできなかった。わたしはその方面に詳しい賢者に会って、教えを請うように勧められた。
わたしは長い旅に耐えられるだけの支度をととのえ、村から七日の距離にある古い町を訪れた。そこはひとの住む大きな町で、毎日のように市が立ち、大通りには朝から晩まで往来があった。わたしはその町で賢者の家を探し出し、その家の戸を叩いて女に姿を与えるための方法を訊ねた。
賢者にはかつて牡牛の気配に牡牛の姿を与えた経験があった。材料にはひとがまだのぼったことのない山から取った大量の土と、ひとがまだ渡ったことのない川から取った大量の水、若干の塩と若干の硫黄、それにいくらかの香辛料と顔料が使われた。賢者は二年にわたる試行錯誤の末に牡牛の気配に牡牛の姿を与えることに成功し、成功を祝うために姿を与えたその牡牛を殺して食べたところ、二年のあいだに得たすべての知識を失った。
賢者の言葉によれば、姿を与えた牛の味は美味であった。しかし差し引き勘定で考えるなら、苦労して牛の気配に牛の姿を与えるよりも、最初から姿のある牛を市場であがなったほうがよほどに効率的であった。市場であればまるごと一頭をあがなわなくても、肉屋に頼めば好きな部位だけをさばいてもらえる。市場で買った肉ならば、食べて腹をこわすことがあったとしても、それで知識が失われることはないであろう。賢者が言わんとしたことはあきらかだったが、わたしが姿を与えようとしていたのは牛ではなくて女であり、食べるためではなくて家事をさせるためであった。肉屋がわたしのために家事をさばいてくれるとは思えなかった。
わたしは賢者に懇願して材料を書きとめた紙を手に入れた。そしてそのまま旅を続けて各地をまわり、材料を集めて村へ戻った。わたしには一頭の家畜もなかったので、すべてを自分の背中で運ばなければならなかった。
それから一年のあいだ、わたしは家にこもって女に姿を与えるための試みを続けた。水と土を混ぜて泥を作り、泥に塩と硫黄を混ぜてこねまわした。配合を変えて同じことを繰り返し、熱を加え、熱を奪い、ときには新たな材料を加えて結果を求めた。気質として閉じこもることに向いていたわたしは間もなくこの仕事に夢中になり、全神経を傾注し、結果を得られないことで次第に苛立ちを募らせた。いかなる努力にもかかわらず、女は変わらずに気配のままで、怒りを込めて投げつけた泥は気配を抜けて壁にあたった。それでもわたしは大胆に泥をかきまぜ、硫黄を使い、顔料を振り、村の者たちは鼻をつまんで現われて悪臭のことで苦情を言った。家にすっかりしみついた硫黄の臭気が外へと漂い、村の空気を汚染していた。床はいつも泥にまみれて、不快な湿り気をのぼらせていた。
気がついたときには、仕事どころではなくなっていた。わたしは湿気によって健康を損ない、臭いのせいで病気になった。頭痛と吐き気とひどい無気力に悩まされた。試みを続けることは不可能になり、わたしは最後の気力を振り絞って立ち上がり、壁を洗い、床を洗い、残った材料を残さずに捨てて堅い寝床に横たわった。
病の床で、わたしは女を罵った。おまえのせいで、とわたしは叫んだ。わたしは壁を洗わなければならなかった、床を洗わなければならなかった。おまえのせいで厄介事を抱え込んだ。おまえのせいで病気になった。おまえのせいで遠くまで旅をし、おまえのせいで重たい荷物を運ばなければならなかった。それというのもおまえが不手際をしたからだ、おまえが姿を備えていなかったからだ。なぜ気配だけで現われたのか、避けられない理由でもあったのか、うっかりしていたとでも言いたいのか、それとも悪意からしたことなのか。おまえのせいで、わたしはひどく不幸になった。
わたしが罵声を浴びせても、気配は部屋の隅を漂うだけだった。わたしは疲労に押しつぶされて眠りに落ち、熱にうなされて目を覚まし、頭痛とともに朝を迎え、吐き気を抱えて昼をすごした。数日で病の床から抜け出したが、心は無気力に包まれたままで、床に腰をおろして壁を見つめることが多くなった。わたしがそうしていると女の気配はわたしに寄り添い、わたしが飢えや渇きに促されて動くまで、決して離れようとはしなかった。女の気配に孤独のような冷たさはなかった。優しさがあり、温もりがあった。時とともに、わたしは女によって癒されていった。離れがたいという気持ちがわたしの心にはっきりと芽生え、続いて抱き寄せたいという抑えがたい願望が現われた。抱き寄せるためには手ごたえを必要とした。わたしは女に姿を求めた。家事をさせるためではなく、わたしの愛を表わすために、再び女に姿を求めた。
だが試みはすでに失敗に終わっていた。わたしは五度目の助けを求めて頬ひげをたくわえた男の家を訪ねたが、男は虚しく首を振った。遠くに旅して様々な町の賢者を訪ねたが、答えを知る者は一人もなかった。ある者は例によって肝心な部分の記憶を失い、ある者はわたしを異端者と呼んで棒で打って追い出した。石を投げてきた者もいた。それでもわたしは答えを探した。答えを求めてわたしは苦悩し、わたしの苦悩の大きさを戸口の隙間から見たあるひとが、とある家の場所を示してこのように言った。
「その家の戸を叩きなさい」
そこでわたしはその家を訪ねて戸を叩いた。その家には奇跡を起こすことで知られた預言者がいた。なかから現われたのは預言者の弟子をしている若者だった。若者はわたしをなかへ招き入れた。家のなかは外見からは信じられないほどの広さがあり、十字の形に並べられた食卓を囲んで多くの者が食事をしていた。その半数は収税吏で、その半数は娼婦だった。近隣の村や町をまわってすべての収税吏や娼婦を集めても、まだ足りないほどの収税吏と娼婦がそこに集まっていた。わたしは頭に浮かんだ疑問を口にしたくてならなかったが、若者はわたしに沈黙をうながし、わたしを家の裏手へと導いていった。
裏口から外へ出ると、そこにはいくつもの籠が並んでいた。籠のかたわらには顎ひげをたくわえた預言者が立ち、見ている前で一匹の干し魚を二つに裂いた。預言者は裂いた魚を籠に投げ込み、それから弟子に目を向けてこのように言った。
「この前は籠に何杯余ったのか?」
「籠に七杯です」と弟子が答えた。
「その前は籠に何杯余ったのか?」
「十二杯でした」と弟子が答えた。
「なぜ、余らないようにできないのか」と預言者が言った。「招かれた者の数は多いが、選ばれた者の数は少ない。なかへ戻って選ばれた者の数を数えよ。選ばれなかった者は外でわめき、悔しさで歯軋りをするであろう」
若者は預言者に一礼して家のなかへ飛び込んでいった。そのあいだに預言者はもう一匹の干し魚をどこからか取り出し、二つに裂いて籠に入れた。それを終えるとまた一匹をどこからか取り出し、二つに裂いて籠に入れた。預言者にはわたしに気づく様子がなかったので、わたしのほうから預言者に近寄り、その傍らにひざまずいた。預言者の衣の裾に手を触れると、預言者はからだを震わせて叫びを放った。
「わたしの衣に触れたのは誰か?」
叫びを聞いて、なかから若者が飛び出してきた。若者はわたしを指差し、預言者はわたしに目をとめた。わたしはひざまずいたまま頭を垂れて、わたしの問題を説明した。そして預言者の助けを請うと、預言者はわたしを立ち上がらせてこのように言った。
「神に祈りなさい」
祈った結果、こうなったのだとわたしは言った。すると預言者は静かに首を振ってこのように言った。
「信仰薄き者よ、あなたは幸いである。あなたは偽りの祈りによって祈りのための器を得たにすぎない。ならばその器を祈りで満たし、あなたの信仰を証すがよいだろう」
それで結果を得られるのか、とわたしは訊ねた。すると預言者は静かにうなずいてこのように言った。
「わたしは言おう。神の国はあなたのようなひとのために開かれている。なぜならば神の国とは、葡萄畑の持ち主が葡萄の取り入れのためにひとを雇うのに似ているからである。葡萄畑の持ち主は朝のうちに広場へ出かけていってひとを雇い、雇われた人々は葡萄畑へ出かけていった。葡萄畑の持ち主は昼にも広場へ出かけていってひとを雇い、雇われた人々は葡萄畑へ出かけていった。葡萄畑の持ち主は日没の間際にも広場へ出かけていってひとを雇い、最後に雇われた人々もまた葡萄畑に出かけていった。やがて陽が暮れて賃金を支払う時刻になると、葡萄畑の持ち主は最初に雇った者が最後となるように、最後に雇った者から賃金を払った。昼から働いていた人々や朝から働いていた人々は、日没の間際から働いていた人々が受け取る金額を見て、自分たちはそれよりも多くをもらえると思ったが、その自分たちもまた同じ額を受け取ったので、葡萄畑の持ち主を囲んで不公平であると不平を言った。そこで葡萄畑の持ち主は不平を言う者たちに答えを与えた。自分の持ち物をなぜしたいようにしていけないのか、あなたがたは少なく働いて同じ額を取った者がうらやましいのか。このように最後の者は最初となり、最初の者は最後となる」
それは実際にあったことだ、とわたしは言った。すると預言者は怒りに震える声でこのように言った。
「わたしがたとえ話をしているときに、なぜ、それは実際にあったことだ、などと言い始めるのか。耳があっても聞こえないのか。なぜ、わからないのか」
わたしは預言者の怒りの大きさを見て震え上がった。そこへ家のなかから若者が現われ、数えた結果を報告した。
「干し魚の数は足りていました」
「では、余った数を籠で数えよ」
「ただ、果物が足りないようなのです」
「果物のことなど、わたしは知らない」
「大きないちじくの木があった筈です」
「そのいちじくの木なら、もう枯れた」
そう言うと預言者は、もはやわたしには目もくれずに家のなかへ入っていった。
わたしは自分の家へ駆け戻った。まずは信じるしかないと考え、女の気配の前に立って女のために祈り始めた。預言者に言われたように女を祈りのための器と考え、神への祈りをそこへ注いだ。祈りを続けるうちに、女は前よりも近しい存在となった。わたしは手ごたえを感じてさらに祈った。日々は祈りで満たされた。日は週となり、週は間もなく月となった。半年ほどが経過すると、祈りのための姿勢は不要となった。一年の後にはすべての言葉が祈りとなり、三年の後にはすべての動作が祈りとなった。五年の後にはわたしのすべてが祈りとなり、すべての祈りは女の器に注ぎ込まれた。
あるとき、家で床を磨いていると、戸口に開いた隙間の向こうで一人の男がわたしを見つめているのに気がついた。なぜ見つめるのか、とわたしは訊ねた。祈りを学ぶために、と男は答えた。あるとき、三人の賢者がわたしの家を訪れた。三人の賢者はわたしに信仰に関わる助言を求め、わたしはそれに沈黙で答えた。賢者たちはわたしの手に接吻をして立ち去った。あるとき、わたしは光を見た。天からこぼれ落ちた無数の光が地上をさまよっていることに気がついた。それは地上にあるべき光ではなかった。わたしは光をすくい取り、祈りによって天に戻した。
七年後、祈りを注いだ器がついに女の姿となって現われたが、わたしはすでにその姿をよく知っていた。心を騒がす驚きはなく、ただ静かな喜びがそこにあった。至福のときがやってきた。わたしは愛を表わすために女の前にひざまずき、抱き寄せるために腕を広げた。すべてはこのために用意された。わたしは女を見上げ、手を近づけ、掌に女の鼓動と体温を感じた。さらに手を近づけ、女の肌に触れようとした。だがその瞬間、女の視線が不意に動き、わたしもまた背後に不穏な気配を感じて振り返った。
そこには二人の御使いがいた。前に立つ一人は小柄で、ゆるやかな白い衣をまとっていた。後に立つ一人は巨体を誇る男の姿で、屈強と見えるからだに獣の皮を巻きつけていた。小柄な御使いがわたしに言った。
「神とともに歩め」
御使いの言葉を聞いて、わたしは口を開けたような気がする。そのわたしを小柄な御使いは蔑むような目つきでにらみ、背後の同僚に顎をしゃくって合図を送った。すると獣の皮をまとった大柄な御使いが飛び出してきて、わたしの前で毛むくじゃらの拳を握り締めた。逃げる暇など一瞬もなかった。わたしは腹を殴られて前にのめり、御使いは転がりかかるわたしをすばやく捕えて肩に担いだ。わたしは自由を求めて抵抗したが、太くたくましい御使いの腕から逃れることはできなかった。
家の外には天からおろされた梯子があり、そのこの世ならぬ輝きを村の者たちが遠巻きにしていた。まず小柄な御使いが先に立って、天を目指してのぼり始めた。大柄な御使いが後に続き、わたしを担いでのぼり始めた。戸口に女の姿が現われた。わたしは女に別れを告げた。女は寂しげな笑みを浮かべて、いつまでもわたしに手を振っていた。
天の国へと至る道はかなり長い。生身のままで、御使いの肩で運ばれた者には特に長い。それは苦難の道であった。だが、わたしはいまここで神とともにあり、そして女のことを考えている。
Copyright ©2014 Tetsuya Sato All rights reserved.