2014年8月5日火曜日

異国伝/人間の運命

(に)

 その昔、とあるところにそれは小さな国があった。あまりにも小さいので地図に載ったことがなかったし、旅行者向けの案内書にも載ったことがない。仮に誰かが載せるつもりになったとしても、その国は名前を持たなかった。不明の時代であっただけに名のない国は珍しくはなかったが、その国の場合は国に名がなかっただけではなく、住民の一人ひとりもそれぞれの名前を持たなかった。国を示す時にはただ国と言い、ひとを示す時にはただひとと言い、互いを呼ぶ時にはあなたと言っていた。自分を示す時に人差指の先を唇にあてたが、これは元来、空腹を意味する仕草であった。
 食べ物はいつでも不足していた。国土は砂に覆われていて、層を重ねる砂の山は太陽の光に焼かれていた。人々は光と熱を嫌って地下に逃れ、穴を穴でつないで暮らしていた。昼の間は身体を丸めてひたすらに眠り、夜になると起き出してきて、食べ物を求めて地上をさまよった。砂漠には砂漠の営みがあり、注意深く探していれば虫や獣にまれに出会った。ある者は一人で虫を探し、ある者は仲間とともに獣を探した。大きな獲物を得るために、いくらかの者は遠くまで足を運んだ。獲物は穴をくぐって国の奥へと運ばれていく。新鮮な獲物は狩人の口には入らなかった。夜明けを前に穴へ戻ると、わずかな食物の配給があった。配られた食物からはいつも悪臭が漂ったが、狩人たちは貪るように口に入れ、自分の寝穴へ戻って身体を丸めた。
 一つの寝穴は一人のために作られていた。幼い頃に与えられた小さな穴を、成長にあわせて自分で大きくしていった。生涯の眠りをそこで費やし、死を迎えると穴は土で埋め戻された。遺体は国の奥へと運ばれていく。死とは空腹の終わりであり、死にはいかなる悲しみもない。悲しみは人生の内にあった。
 名を持たない人々には家族がなかった。男や女という考えもなかった。全土が地底の闇にまみれていたので、何事につけ見分けるということが難しかった。ひとはひとではあったが、他者という以上の意味はなかった。自分が自分であるためには、ただ唇に指をあてれば事が足りた。自分の存在と自分の欲望はたったそれだけで説明できた。不幸なことに、ほかに説明すべきことは何もなかった。欲望が縛られていたので愛について知ることもなかった。世界に関心を抱くこともなく、生まれ落ちてきたその日には、幼い指で自分の寝穴を広げていた。そしてある時、そうして広げられた寝穴の一つで一人が目覚め、悲しみとともに闇を見つめた。
 その一人は男でもあり、女でもあった。幼子ではなかったが、老人でもなかった。その者は狩人だった。一夜を費やして一匹の獲物を捕えていたが、一夜を無為に終わらせた者と同じだけの食べ物を受け取っていた。全員が同じ量を得るのは弱い者をかばうためではなくて、ただ見分けることができなかったからだった。
 狩人は一匹の獲物を得るために、砂漠を歩き回らなければならなかった。獣を見つけた後は、走らなければならなかった。どうにか捕まえた後には、また穴まで戻らなければならなかった。それだけの仕事に対して、与えられた食料はあまりにも少なかった。狩人は養分の補給を必要としていた。激しい空腹を感じて目を覚まし、悲しみとともに闇を見つめた。見つめている間に空腹が欲望を突き動かし、狩人は身体を起こして穴を出た。
 国の奥には食料の貯えがある筈だった。そこへ行けば、自分を満たすことができるかもしれない。そう考えて、闇の中を歩き始めた。穴の壁を手で探り、隠された目印を探しながら国の奥へと進んでいった。そうしながら狩人は心を奮わせていた。思いついたばかりの自分を満たすという考えに、恐怖と期待を感じていた。満たされない者が自分なら、満たされた自分は何者なのか。その者もまた自分なのか、それとも違う者なのか。違うとすれば、自分はいったいどうなるのか。
 それまで、時の流れは闇の底に沈んでいた。起点に小さな穴があり、終点には埋め戻された穴があることは知っていたが、その間には満たされぬ思いが淡々と並んでいるだけだった。そのどれがどれなのか、どれが前で、どれが後なのか、闇の底にいた狩人には区別をつけることができなかった。だがたった一つの考えを抱いただけで、狩人の前にいきなり未来が広がった。泡立つ時間の流れに手を差し入れて、手応えをはっきりと感じていた。そしてその感触に恐怖を味わい、人生の選択という未知の行為に激しく胸を高鳴らせた。なぜ今まで考えなかったのか、なぜ今までそうしなかったのか。疑問が浮かんでは恐怖に洗われ、渦巻く恐怖は未知への期待に飲み込まれた。狩人は道を選んで闇の中をなおも進み、次第に国の奥へと近づいていった。
 食べ物の悪臭が漂ってきた。空気は湿り気を増し、地面は水を吸っていた。前へ出ると食べ物の臭いが濃厚になった。気配を探して鼻を動かし、ひざまずいて手で探った。空気のかすかな流れが、道の続きを狩人に教えた。湿った地面を踏みながら、足音を忍ばせて奥へ進んだ。壁は濡れ、天井からは水が滴り落ちていた。
 やがて音が聞こえてきた。それは食べ物を咀嚼する音だった。別の音も聞こえた。それは水の跳ねる音だった。狩人は壁から手を離し、鼻を動かしながら闇の奥へ進んでいった。手が何かに触れた。暖かくて、粘りのある液体に包まれていた。狩人は液体の臭いを嗅いだ。食べ物の臭いがした。舌で舐め取った。食べ物の味がした。すぐ近くから、力強い咀嚼の音が続いていた。口は唾液で満たされ、胸はたまらない気持ちで一杯になって、狩人はその場に座り込んで手を伸ばした。最初に触れた物をまず転がした。それは小さかった。持ち上げて臭いを嗅ぎ、食べ物の臭いであることを確かめてから顎を開いて歯を立てた。口の中に血が溢れた。それは悲鳴を上げていた。狩人は血を吸い、肉にしゃぶりついていった。一つを平らげ、また一つに手を伸ばした。それは大きかった。転がそうとしても動かなかった。だから狩人は爪を立てて皮を破ろうとした。すると聞こえていた咀嚼の音が消え、代わって叫ぶ声がほとばしった。狩人は手を止めた。
 叫んでいたのはひとだった。狩人は立ち上がった。背後の道に足音が響き、振り返ると光の影が踊るのが見える。間もなく数人が松明を手にして現われ、狩人を囲むようにして近づきながら炎で国の奥を照らしていった。
 そこには大きなひとがいた。見上げるほどの巨体を横たえて、膨れ上がった子宮を腰からぶら下げていた。その半透明の膜の下にはひとの子がいくつも並び、どれもが身体を丸めて眠っていた。一つが動いて、膜の中を滑り落ちた。子宮からつながる管を通って産み落とされ、粘る液体にまみれて転がった。大きなひとは叫ぶのをやめた。手にした獣の肉にしゃぶりついた。痛みのことはもう覚えていない。
 松明を持つ者が、狩人の足元を指差していた。狩人の足元には残骸があった。別の者が狩人を指差し、罪を問うた。狩人は自分を指差し、人差指の先を唇にあてたが、その意味するところは最早わからなくなっていた。

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