2014年8月22日金曜日

異国伝/亡者の場所

(も)

 その昔、とあるところにそれは小さな国があった。あまりにも小さいので地図に載ったことがなかったし、旅行者向けの案内書にも載ったことがない。見た目には普通の国であったとされているが、その国については古くから奇妙な噂があって、事の真偽を確かめようと多くの者が訪れていた。そして訪れた者のうちの多くは噂が真実であることを知って自分の国へ逃げ戻り、いくらかの者は自らの目を疑って一切を幻覚と断定し、ごくわずかな者は人生の黄昏の時期を待って再びその国を訪れた。
 その国ではすでに死を迎えた者が歩いていたという。すべての死者が、というわけではない。おおむね二十人に一人の割合で埋葬の前に立ち上がり、静かに歩き始めたという。なぜそうなるのかはまったく不明で、男女の違いや貧富の差、あるいは生前の性格や行動にも理由を求めることはできなかった。歩く死者の中には男もいたし女もいたし、生前に高潔で知られた者もいれば低劣によって知られた者もいたのである。
 死者は歩いただけではなく、座ることもした。ひとの集まる場所を好み、座り込んでは頬杖をついて道の往来や居酒屋の喧騒を飽くことなく眺めていた。話すこともしなければ、食べることも飲むこともしない。耳を傾けているように見えたとしても、話を聞いて頷くことは決してない。往来がなくなれば立ち上がり、居酒屋が閉店の時間を迎えればおとなしく店を出ていった。夜の間は道をどこまでもひたすらに歩き、森をさまよい、畑に踏み込んで作ったばかりの畝を潰し、時には小川の畔で足を止め、川面に映る自分の姿をじっと見つめた。月の明かりや星の明かりに照らされた死者の姿は、無害であることがわかっていても、見る者に恐怖を与えたという。朝になると死者は群れをなして町に戻り、広場の隅に腰を下ろした。瞬きもせずに市の光景を見物し、市がはねると思い思いの場所を求めて町の中へ散っていった。
 いつの頃からか、その国では死者の場所が定められていた。広場にも既定の場所があり、階段に座り込んだ死者は通行の邪魔になるので監督官によって追い払われた。死者たちは集会場の入口も好んだが、ここでも場所は北側の一角に限られていた。南側は伝統的に反対派が気勢を上げるために使われたからである。居酒屋には死者専用の席が設けられていて、その位置は店によって異なっていたが、たいていは入ってすぐ脇の壁際か、さもなければ便所の横の壁際であった。習慣を知らない旅行者は誤って死者の隣に座ることがあり、しばらくしてから気がついて恐ろしい思いを味わった。無用の騒動を避けるために、一部の店では注意書きを出していたという。
 その国の人々は歩く死者を受け入れていた。疑問はおそらく誰の胸にもあった筈だが、口に出して問う者はいなかった。生きている者がいかに考えようと、死後の生活は想像の域を出ることがない。歩く死者を前にして魂の行く末を論じることには、多くの者が不安を感じた。そこにいるのは未知の人物ではなくてかつての隣人や親族であり、もしかしたら聞いているかもしれないからである。だから理由は死者の胸の内にあるとされていた。理由を伝える必要があれば、死者が口を開いて言う筈であった。
 受け入れてはいたが、まったく問題がなかったわけではない。浮かれた若者たちが死者を木に吊るすことがあった。何も知らずに木に近づいてうっかり見上げてしまった者は、無害であることがわかっていても、やはり恐怖を覚えたという。畑を荒らされて怒った農夫が、死者を捕えてこっそり始末することもあった。石を抱かせて川に沈めるか、縛って埋めるかしたのである。ずぶ濡れになった死者が石を抱いて歩いているのを見た者がいるし、泥まみれになった死者が縄を引きずって歩いているのを見た者もいる。故人の行方を案じた遺族が騒ぎを起こすこともあったようだが、遺族の要請に応じて司直が動いたことは一度もない。
 監督官たちは歩いている死者の様子を観察し、腐敗が進んだ者から順に処分していった。どのように処分していたのかは定かではないが、再び歩くことがないように斧で切り刻んでいたと言われている。おそらくはこの仕事のせいで監督官は蔑まれ、時には遺族の恨みを買った。監督官が国から多額の給与を得ていたのは、その代償であろう。幸いなことに、死者を見張り死者を闇に葬るこの無残な職業はある日を境に無用となった。
 見つけたのが誰であったかは知られていないが、ある日、町のはずれのさびれた場所で地下へと通じる穴が見つかった。それはそれまで石の蓋によって塞がれていて、周りに生い茂る草によってひとの目から隠されていた。そこにあった重い蓋を取り除くと、死者たちは一斉に穴を目指して歩き始めた。列を作って町のはずれに迷わずに進み、一人また一人と穴の中へ消えていった。そしてそれ以来、すべての死者がおとなしく葬られるのを待つようになった。穴の先に何があるのか、確かめるために入った者は一人もない。

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