2014年8月12日火曜日

異国伝/翡翠の乙女

(ひ)

 その昔、とあるところにそれは小さな国があった。あまりにも小さいので地図に載ったことがなかったし、旅行者向けの案内書にも載ったことがない。だが一説によれば地図にも旅行案内書にもなかったのはその国が小さかったからではなく、実は巧みに施された隠蔽工作の成果であったという。
 伝えられるところによれば、内陸に位置していたその国は国土の大半が山であった。別の伝聞によれば、国土の全部が山であった。高さや大きさの点で特筆に値するような山は一つとしてなかったが、いずれも意地悪く裾を立てて峰を並べ、山以外の場所の大半を谷底にしていた。そして谷底にはおびただしい水の流れがあったので、人間が暮らしのために使える場所はそそり立つ山肌以外にはなかったのである。町はどれも崖に貼りつき、上下に延びて収入の格差を明示していた。家と家の間は梯子で結ばれ、移動は水平よりも垂直におこなわれることの方が多かった。
 崖を覆うようにして縦横に広がる町というのは、もしかしたら旅行者の目にはいくらか魅力的に見えたかもしれない。だがそこで生活を送っていた人々にしてみれば、愉快でもなかったし、安全でもなかった。移動の途中で足を踏み外して川に落ちる者は後を絶たなかった。家具の配置替えをしたせいで、重心を崩した家が崖から剥がれるという事故も珍しくはなかった。構造的に下水道の整備に困難があったため、排泄物の処理に関わる問題は常に騒動の中心に位置していた。というわけで垂直方向への発展を嫌って、時には水平方向への挑戦がおこなわれたと伝えられている。
 剥き出しの岩肌があれば誰でもそうするように、まず洞窟の掘削が試みられた。掘削そのものは順調に進んだが、なにしろ平地が乏しいので掘り出した土砂を処理する場所がない。眼下の川に捨てるということもおこなわれたが、水が濁る、流れが変わる、塞き止められて漁場が潰れるといった漁師たちの苦情にあって中止された。漁業がその国の主要産業だったからである。代わりに絶壁に沿って山頂まで運び上げるという大胆な解決法を考案した者がいたが、よくよく考えてみれば山頂はひどく切り立っていて、土砂を捨てる場所などどこにもない。この案はただちに却下された。その後も解決のための努力が続けられたが、当の洞窟に捨てればよいという煮詰まった案が提示された段階で、洞窟の掘削自体が王令によって禁止された。王は掘るという行為に対して説明できない種類の猥褻さを感じたのである。
 洞窟の掘削が禁止されたことを受けて、橋の建造計画が立案された。川をまたいで崖と崖の間に数本の橋を渡し、その橋の上に住居を造ろうという考えである。資材となる木材は山頂から豊富に供給されたし、崖と崖の間の距離は決して大きくはなかったので、技術的な問題もそう多くはないのではないかと思われた。事実から言えば技術的な問題は速やかに解決され、最初の橋は予定よりも早く完成した。ところがそこへまた王が現われ、いきなり橋の建造を禁止したのである。王は川をまたぐ橋に対して、説明できない種類の猥褻さを感じたのであった。重なる王の禁令によって水平方向への挑戦は中断され、人々は変わらずに崖にへばりついて暮らしを続けた。
 さて、ある時一人の旅人がその国を訪れ、梯子で足を滑らせて川に落ちた。幸いにも春先の増水はすでに終わっていたので、ひどく流されはしたものの怪我もなく救い上げられた。通常、このような目にあった旅行者は自分が味わった不運を嘆き、不運の原因を用意した旅先の土地に恨みの心を抱くものだが、この旅人はこれは誰の責任でもないと明言し、また戻ると告げると予定を切り上げて旅立っていった。ただし旅立ちに先立ってとある漁師の家を訪問し、川で獲るのは魚だけかと確かめたという。漁師が頷くと、旅人は喜びを押し殺した。やがて旅人は予告どおりに舞い戻ったが、その時にはいささか怪しい風体をした数人の男をともなっていた。到着したその日から船を雇い、地元の者をはずして旅人自らが櫓を握った。同行の男たちは交代で川に潜り、そのたびに川底から何かを持ち帰った。
 この様子が王の目に入った。王には日頃から、心を乱すものを求めて国内を徘徊する習慣があったのである。川に浮かんだ船を怪しみ、必要があれば捕縛せよと命じて配下の者を差し向けた。これは捕縛せよという意味であったので、王の忠臣たちは数艘の船に分乗して旅人の船を囲み、船上にあった全員の身柄を拘束するとともにすべての荷を押収した。旅人は説明を拒んだが、荷は雄弁に真実を語った。川の底には無数の宝石が沈んでいたのである。真実の後には弁明があった。旅人はこれを国外に持ち出し、売却して利益を得ようと考えていたが、成功の暁には王にいくらかを支払う予定だった。
 王は熟慮の上で、旅人の供回りの者を残らず川に沈めた。それから交渉に取りかかった。建設的な意見が交わされ、王が利益の九割を得る代わりに潜水夫を派遣し、王に九割を与える代わりに旅人は一割を得るということで最終的に落ち着いた。
 旅人は牢から出され、潜水夫と船を与えられた。潜水夫が川底から持ち帰った宝石は、端から王の元へと運ばれた。旅人と潜水夫たちは休みなく働き、王が用意した宝箱は一つまた一つと一杯になっていった。王はその様子を見て説明できない種類の猥褻さを感じたが、この時はまだやめようとはしなかった。
 採取が始まってから一月ほどが経った頃、旅人が王に面会を申し入れた。理由を質すと、信じがたい物を発見したという返答がある。王は許可を与え、旅人は床に引かれた線にしたがって王の前に姿を現わし、興奮した口調で現地での視察を要請した。新たに発見した物体は、その重量によって王宮の安定を著しく損なう可能性があるという。そこで王は旅人を先に進ませ、梯子をどこまでもどこまでも降りていった。
 川の流れを間近に見下ろす船着き場は、すでに人払いされていた。問題の物体は船着き場の中央に置かれ、正体は白い布で隠されている。卵を立てたような形状をしていたが、その大きさは大人の男を遥かに凌いだ。王が前に立つのを待ってから、旅人が布を取り去った。王は驚愕に口を開き、王の忠臣たちは溜め息を洩らした。
 それは巨大な翡翠であった。表面は滑らかで傷一つなく、入念に研磨が施されていた。だが王が驚いたのは目の前の物体が大きいからでも美しいからでもない。中心部に全裸の少女が閉じ込められていたからであった。少女は目を閉じていた。あどけなさの残る顔をわずかにうつむけ、緑に輝く石の中に長い髪を泳がせていた。胸には豊かな膨らみがあり、見事な曲線は腰を描いて脚に続く。手の一方は腿に沿い、もう一方は下腹に伸びて股間に触れていた。
「これは」と退きながら王が尋ねた。「死んでいるのか?」 

「死んでいると、考えるべきでしょう」と旅人が答えた。
「まるで生きているように見える」 

「いかにも、そのように見えます」 
「で、これをどうするつもりか?」 
「お許しがあれば、このまま運び出したいと考えております」 
「売ろうというのか?」 
「間違いなく、とてつもない値がつくことになりましょう」 
 王は口を閉じて翡翠を見つめた。翡翠の内部に目を凝らした。それから旅人に顔を向けてこのように言った。
「なぜ、このような物体が存在するのか?」 

「これこそ自然の驚異と申すべきでしょう」 
「なぜ、あの娘はあのように脚を開いているのか?」 
「自然の営みによってあのようになったと考えます」 
「あの様子には、心をひどく乱す何かを感じる」 
「運び出してしまえば、陛下のお心を乱すことはございません」 
「説明できない種類の猥褻さを感じる」 
 すると旅人は説明できない種類の危険を感じて、このように言った。
「いえ、これは芸術でございましょう」 

 これを聞いた王は目を怒らせ、忠臣たちに命じて再び旅人を捕えさせた。
「芸術かどうかは、余が決めることだ」 

 旅人を縄でくくられ、同じ縄の一方の端は巨大な翡翠に結ばれた。そうしてから翡翠は川に戻された。王宮に貯め込まれた宝箱の宝石もすべて処分された。出所が同じなので猥褻性に連座している可能性があったのである。
 王は川に潜ることも、川に落ちることも禁止した。どちらにも厳罰を約束した王令を出し、さらに得体の知れない旅行者がよからぬ考えを抱いて王の心を乱すことがないように、あらゆる地図から国の場所を消し去った。だからその国がどこにあったのか、それからどうなったのかは、誰も知らない。

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