2014年8月27日水曜日

異国伝/予言の顛末

(よ)

 その昔、とあるところにそれは小さな国があった。あまりにも小さいので地図に載ったことがなかったし、旅行者向けの案内書にも載ったことがない。だが預言者がその国に現われて恐るべき予言をおこなった時、翼を持つ噂はすぐさま四方へと飛び立った。そして知る者のなかった国は数日を経ずに知らぬ者のない国となり、多くの者は地図を開いて噂の土地の所在を確かめ、どこにもないのを知って眉をひそめた。そのために噂の国の存在もまた噂の範疇に属することとなったが、それによって噂が価値を失うことはなく、地理上の発見に関わる新たな噂に加勢されていよいよ遠くまで広まっていった。
 辺境の地で生まれた噂が速やかに、また広範に伝えられていったことには理由がある。与えられた予言が一人や一国の未来を語っていたからではなく、世界の未来について語っていたからである。予言は恐怖に満ちた世界の終末について語っていた。大陸の端まで伝わって後代まで語り継がれた噂によれば、預言者はある朝、森の奥から姿を現わし、森のはずれで農業を営む善良な一家に予言を与えた。
 善良な上に信仰に篤い一家であったと伝えられる。農夫とその妻は婚姻の後も純潔を守り、誘惑を遠ざけるために町を離れて辺鄙な土地に住みついた。一説によれば、地図にないその国がその国のために作った地図にも記されていない土地であったという。夫婦はそこで慎ましい小さな家に住み、一男一女の健康な二児をもうけて小さな畑を耕していた。いかにして子を作ったのかは、噂は何も伝えていない。純潔を失ったからだとする者もいるし、子は噂の尾鰭の部分であるとする者もいる。そうではなくて実は神秘が語られているのだとする者も中にはいるが、いずれにしても予言との直接の関わりはない。
 ある朝のこと、青空が広がった陽気な日であったとも、鉛色の雲が空に低く垂れ込めた陰気な日であったとも言われているが、一家は夜明けとともに起き出して総出で朝食の準備を整えていた。息子と娘が水汲みに出れば農夫は庇の下で炉に火を起こし、傍らでは農夫の妻が碾割の豆に粉を加えてパン種をこねる。炉にかけた薄手の石のまな板に種を延ばしてパンを焼き、焼き上がった最初の一枚を祈りの言葉とともに神に捧げた。供物はすぐに四つに裂かれて家族の一人ひとりが一片を取り、それぞれに祈りを呟きながら塩をかけずに口に入れた。二枚目のパンは農夫が取り、三枚目は息子が取り、四枚目は妻と娘が分けあった。塩をかけてパンを頬張り、水を含んで飲み下し、そうして朝食を進めているうちに家の中で物音を聞いた。
 家族は庇の下に揃っている。目でそれを確かめると、農夫は物も言わずに飛び込んでいった。息子は手近の棒を握って後に続き、女房が石の擂粉木を手に構えれば娘は壷を高々と掲げた。中で争う音がした。間もなく農夫と息子が戸口に現われて、一人の老人を家の外へ引きずり出した。
 農夫の妻が夫に顔を向けると、夫はただ首を横に振った。これは農夫も息子も無事であるという意味であった。
 農夫の妻が再び夫に顔を向けると、夫はまた首を横に振った。捕えた老人とは面識がないという意味であった。
 農夫の妻がもう一度夫に顔を向けると、夫は首を振りながら家の中を指差した。侵入は戸口からではなく、裏の壁に穿たれた穴からおこなわれたという意味であったが、家の中を覗き込むと、なるほど壁には穿たれて開いた穴があった。
 老人は白髪を乱してぼろをまとい、ねじれた木の枝を杖にしていた。
 息子が縄でくくろうとすると、農夫は首を横に振った。娘が壷で打ち据えようとすると、農夫は首を横に振った。老人が無実を叫んで抗議すると、農夫はそれにも首を振った。逃がさぬように力を込めて腕を掴み、天を仰いで祈りの言葉を呟き始めた。長い祈りの後で農夫は老人に顔を向け、おもむろに口を開いてこのように言った。
「罪」 

 神に祈る言葉は知っていたが、ひとと語る言葉は多くを知らなかったのである。
「その手を放せ」と老人が言った。「手を放せば儂が何をしていたのか、それを話して聞かせよう」 

 だが農夫は耳を貸さずに、戸口の奥を指差してこう言った。
「罪」 

 老人が中で何をしていたのかはともかくとして、壁に穴を開けたのは罪だという意味であった。
「それならば」と老人が言った。「儂が何者であるかを聞かせよう」 

「罪人」と農夫は言った。
「罪人ではない」 

 老人は言葉を切って農夫を見上げ、家族にも目を走らせてからこのように告げた。
「儂は、予言をおこなう者である」 

 すると農夫の妻と二人の子は息を飲み、農夫は物言わぬ目で老人を見つめた。息子が口を開いてこのように言った。
「どのように予言をおこなうのですか?」 

 また娘も口を開いてこう尋ねた。
「壁に穴を穿って未来を占うのですか?」 

 農夫は目に怒りの色を浮かべて子らを見た。息子と娘は恐れを感じて身をすくませたが、老人は質問に答えてこのように言った。
「信仰篤き娘よ。驚いたぞ、そなたは見事に言い当てた。いかにも儂は壁に穴を穿ち、開いた穴の向こうに未来を見る」 

 農夫の妻と二人の子はここで再び息を飲み、農夫もまた小さな驚きを目に浮かべて戸口の奥を覗き込んだ。腕を掴む力も緩み、老人は逃さずに自由を掴んで農夫から数歩の距離を取った。握った杖を振り立てて目を爛々と輝かせ、善良な一家に顔を向けると声を厳かに響かせてこのように言った。
「信仰篤き者たちよ、心して聞くがよい。終末の時が近づいておるぞ。儂はその有様を壁の穴の向こうにはっきりと見た。やがて訪れるその日には風が吹き荒れて雷鳴が轟き、空には不吉な色の雲が幾重にも重なる。異形の空が地を覆い、陽は隠れて恵みを拒み、石をも貫く雨が注ぐ。雷の青白き舌は生け贄を求めて屋根を貫き、死は絶望を伴侶にして戸を叩き、地下からは腐敗と堕落が現われて地上を闊歩する。逃れることは最早かなわぬ。信仰薄き者には災いの日となるであろう。天空より降り注ぐ恐怖によって心を乱され、劣情の虜となってひとの姿を見失う。最後には不浄の屍となって大地を汚すことになるであろう。だが信仰篤き者たちよ、おまえたちは安んじているがよい。降り注ぐ恐怖から目を背け、触れることを厭えば決して心を乱されることはないであろう」 

 白髪の老人がこのようにして予言を終えると、農夫の妻と二人の子はひざまずいて頭を垂れた。妻は信仰の高まりによって涙を流し、耳を赤くして老人の手を取った。娘も母親に倣って老人に手を伸ばし、息子は顔を上げてこのように言った。
「天空より降り注ぐ恐怖から目を背けよ、触れることを厭えとのありがたい教え、必ず守ります。しかし、その恐怖とはいかなる姿をしているのでしょうか。目を背け、触れることを厭おうとするならば、いかなる姿からそうればよいのかを、まず知っておく必要があると思うのですが」 

「信仰篤き若者よ。驚いたぞ、そなたはよく気づいたな。恐怖の姿を知らなければ、恐怖から目を背けているのかどうか、わからない。また恐怖の姿を知らなければ、手を触れてしまっても恐怖に触れたかどうか、わからない。いかにもそのとおりだ。そこで儂はそなたたちに恐怖の姿を教えよう。記憶にとどめ、もしほかに信仰篤き者があるならば、その者たちにも小声で伝えておくがよい。よいか、天空から降り注ぐ恐怖とは、女の肌着の姿をしている。いかに心を乱されようとも、見てはならぬ、触れてもならぬぞ」 
 これを聞いた農夫の妻と二人の子は激しい恐怖に唇を震わせ、まず互いに抱きあってから老人の手を取って祈りの言葉を呟いた。
 さて、白髪の預言者は家族に祝福を与えて立ち去ろうとしたが、突然、農夫が襲いかかって荒々しく地面に組み敷いた。馬乗りになって自由を奪い、頭を押さえて身を屈めると手にした石の包丁で預言者の目玉をくりぬいた。老人は口から絶叫を放ち、農夫の手から解放されるとすぐに立ち上がって森の奥へと逃げ去った。息子と娘は驚愕に目をわななかせ、妻は夫に顔を向ける。すると農夫は首を振り、血の滴る目玉を地面に捨ててこのように言った。
「穢れ」 

 とはいえ、この部分は噂では伝わっていない。噂の源となったのはこの農夫ではなくて、死ぬような思いで町まで逃げた預言者の方だったからである。

Copyright ©2014 Tetsuya Sato All rights reserved.