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その昔、とあるところにそれは小さな国があった。あまりにも小さいので地図に載ったことがなかったし、旅行者向けの案内書にも載ったことがない。小さな王城を囲む小さな町が一つあり、その外側には単調な緑色に染め上げられた退屈な田園風景が広がっていた。近隣に並ぶ小国と比べても特徴と言える特徴はなく、一見したところでは生彩を欠き、活気も欠いていたので市は賑わいを知らなかった。慢性的に不景気であったという説もある。住民は全体に退屈で、どこかしら鬱屈した気配を漂わせていたと言われているが、いつも不景気であったとすればそのせいであろう。それにもかかわらずいかなる対策も取られることがなかったのは、歴代の王が卓越した理想主義者であったからだとされている。遥か未来における理想の社会を考えるのに忙しくて、手元のことには関心がなかったのである。王は未来に希望をつなぎ、民は現在に苛まれて不満を貯えていた。
さて、ある時のこと、代々の王の中でも特筆すべき理想主義者であった王が死の床に就き、外国で学業の途上にあった王子が呼び戻された。王子は父王の死を受けてただちに王位を継承し、そして側近たちを驚かせたことには、合理主義の導入を宣言した。
「秋の夜長の暇潰しのように長々と理想を弁じる時代はもう終わった。これからは一切を合理的に判断し、合理的に解決していく。理想主義の名に基づく停滞には終止符が打たれた。我が国は冒険の精神を携えて、未来へと大きく飛躍するのだ」
同じ演説を王城のテラスでも繰り返したので、民は熱狂して王を迎えた。もちろん全員が熱狂したわけではなくて、実務経験のない元王子に不安を抱いた者がいくらかいたし、王が言う冒険の意味を量りかねて心配を始める者もいくらかいた。しかし停滞に倦み疲れた圧倒的多数は変化の兆しを歓迎し、若き王に忠誠を誓ったのである。
王は手始めに大法官を始めとする側近の大半を解任した。いずれも伝統的な理想主義者で、合理主義を掲げる王にとっては間違いなく無用の長物であった。代わりに民の中から人材を募り、合理的な発想の持ち主を身分を問わずに採用した。それでも足りない部分には外国から学業仲間を呼んで任にあて、妥協を排した合理的な組織を結成した。そこで働いていたのはどれも若く、どれも聡明で、どれも合理的な精神の持ち主であった。
組織の整備を終えた王は、すぐさま外交問題に取り組んだ。国家安全保障会議と称する会議を招集し、若き重鎮を並べて周辺諸国の状況をつぶさに検討した。
東の隣国にはいかなる怪しい動きもなかったが、今のところはという話であって危険な行動を起こさないという保証はどこにもない。南の隣国には王位継承権の問題から内紛の兆しがあり、西の隣国にはその内紛に便乗して何かしらの権益を確保しようとする野望が見える。しかし最大限の注意を要するのは北の隣国で、いわゆる南下政策が隔世遺伝でもしているのか一代置いては蘇る。現在はまさにその時期にあり、敵は南方への野心をこれまで巧みに隠してきたが、だからこそ、いつ侵略を受けても不思議はなかった。
若き王は父祖である王たちの名を罵った。周辺にこれだけの問題を抱えながら、先王たちが放置していたことを知ったからである。だが王の罵倒が長く続くことはない。手短に切り上げて対策にかかった。
まず東の隣国を監視しておく必要があった。ただし最小限にとどめ、必要な場合には強化できるように手配しておく。南の隣国にはただちに全権公使を送って可能な範囲での干渉をおこない、同時に西の隣国の野望を適度な宣伝によって告発する。だが北の隣国は問題だった。これは明らかに頂上会談を必要としていた。北の王は経験を積んだ老人であり、こちらを若造と思って舐めているに違いなかった。だとすれば一刻も早く頂上会談をおこなって、こちらに気概も腕力もあることを見せなければならない。日程の調整を始めよう。だが大使を通せば丸めにかかって時間を稼ごうとするだろうから、ここは遠慮をしない特使を使う必要がある。
これだけのことを速やかに決めると、ただちに実行に取りかかった。すると間もなく東の隣国から苦情が届いた。王の軍隊が暗黙の国境線を越えて威力偵察を繰り返しているという。南の隣国からも苦情が届いた。王位継承の問題はすでに決着済みであり、友好国からの干渉は必要としていないという。西の隣国からは特使が訪れて威嚇的な警告をおこなった。これ以上根拠のない悪評を流せば、しかるべき制裁を考えるという。
「考えるということは」と王は言った。「まだ考えていないということだ。つまり我々の行動はまだ限度内にあるということであり、裏返せば敵への威嚇はまだ十分におこなわれていないということだ」
安全保障会議の面々が頷き、西の隣国への告発を強化するように指示が出された。そうしている間に北の隣国との頂上会談の日程が定まり、二人の王は暗黙の国境線の上で出会って言葉を交わした。
「ありゃなんじゃい、あんたがよこしたくそ生意気な特使の小僧は」
「両国の平和のために、わたしは貴国に理性ある態度を要求します」
「くそったれが。口のきき方も知らんような奴にようやらせるわい」
「そちらの野蛮な意図を、こちらが了解していることをお忘れなく」
二人の王は話しあったが、話は最初から最後まで平行線を描いて終わった。若き王は王城に戻って隣国の王を激しく罵り、国家安全保障会議を招集すると軍の動員を指令した。話が噛みあわずに終わったということは、隣国の老獪な王が意図してそうしたことであって、したがって敵はすでに侵略の準備を整えていると判断したからである。
王の軍勢は暗黙の国境に進出し、北の隣国はその一部が領土を侵犯したと判断した。特使が抗議状を携えてやってきたが、国家安全保障会議の若者たちは侵犯はないと判断し、若き王はその判断を支持して特使を冷たく追い返した。特使はそれからも軍の撤収を求めて再三現われ、そのたびに王の謁見を求めたが、王は執務室にこもって会うことを拒んだ。実は展開中の軍隊からの報告が王を苛立たせていたのである。北の隣国には目立った動きが何もなかった。王の合理的な精神からすれば、敵軍はすでに展開を終え、侵略を始めていなければならなかった。善良を装った特使の行動は展開のための時間稼ぎなのか、それとも別種の謀略がどこかで用意されているのか。だとすれば東西の隣国が怪しかった。密約が交わされているのだ。間違いない。軍が北に集結している隙に、側面を攻撃してくる可能性がある。
王は軍に増員の指示を出し、農民から徴兵する許可を与えた。即席の民兵団が東西の国境に配置され、その一部がどうやら暗黙の国境線を侵犯した。脅えた東西の隣国が軍隊を動かし、報せを聞いた北と南の隣国もそれぞれの国境線に兵を送った。周辺諸国は若き王がどこかへ一撃を加えてくるものと待ち受けたが、そうしてくる気配はいっこうにない。若き王の方でもどこかが一撃を加えてくるのを待っていたからである。合理的な精神が後々に関わる歴史的な正義を要求していた。
それからは国から国へと特使が飛び、会談が開かれ、交渉が繰り返された。だが状況にはいかなる進展もなく、どの国も軍を引こうとはしなかった。短い飛躍の時代が終わって再び停滞の時代が始まり、二年の後に若き王が暗殺されても諸国間のすくみあいはなお十年続いた。その間に景気はひどく後退したと伝えられている。
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