(み)
その昔、とあるところにそれは小さな国があった。あまりにも小さいので地図に載ったことがなかったし、旅行者向けの案内書にも載ったことがない。それでもその国の存在は伝説を介して多くの者に知られていた。伝説を聞いた多くの者が惹きつけられ、伝説を信じた多くの者がその国を目指して旅立っていった。だが辿り着いたという者は一人もない。多くは道の半ばで倒れ、わずかな者が生きて戻った。
伝説によればその国には黄金が満ち溢れていた。道は金の延べ板で舗装され、屋根には金の瓦が敷かれ、家々の棚には重い金器が山積みとなり、住民は金糸で織った衣服をまとい、食べ物には金粉がまかれていたという。便所の便器が金ならば便座もまた金で作られていて、飼い犬や飼い猫も金にまみれ、路上には黄金色の糞が点々と並ぶ。
伝説を聞いて欲に駆られた者たちが、その国を探して旅立っていった。湿気を帯びて黒く霞む熱帯雨林に足を踏み入れ、次から次へと命を落として下生えの肥やしとなっていった。行く手は分厚い密林に阻まれ、道と言えるような道はなく、横からも背後からも、時には上から下からも数々の危険が襲いかかった。仮にその場所まで辿り着くことができたとしても、伝説の国を見つけられるかどうかが怪しいという。失われた国の姿は朝焼けの中にだけ立ち上がると言う者がいたし、夕陽を浴びて影が差すと言う者もいた。運よく見つけることができたとしても、実は入るのが難しいという。失われたその国は黄金の巨人に守られていると言う者がいれば、巨大なヤモリに守られているという者がいた。しかもその巨大なヤモリというのは、奇怪にも元は人間なのであった。
伝説にまつわる噂話は聞く者の心に恐怖を起こしたが、恐怖よりも欲望が勝る者は劣情に駆られて腰を上げた。密林の恐怖は克服可能な障害でしかなかった。恐怖はすでに人生にあった。一獲千金の夢をかなえて世界に自分の名を広め、嫉妬と羨望の飽くなき対象となることながなければ、人生はただの無為でしかない。
「俺は行く」
野心家で知られた一人の男が、そのように言って決意を固めた。心ある者は言葉を尽して決意を砕こうと試みたが、男は人生の空しさを恐れて旅立っていった。海を渡り、川を遡って文明のはずれにある町を訪れ、そこで案内人と人夫を雇うといよいよ密林に足を踏み入れた。
密林は恐怖と危険に満たされていた。陽は葉に遮られて地上は昼でもなお暗く、足元は不確かでしかも湿って滑りやすかった。まず人夫の一人が足を挫き、次に別の人夫が転んで腕を骨折した。行動不能となった二人を置き去りにして、なおも進むと前には鬱蒼とした薮が立ち塞がる。鉈を使っていた人夫が誤って自分の手を落とし、斧を使っていた人夫は誤って自分の脚を切った。行動不能となった二人を後に残して道を開き、薮を突破して激流に洗われる河辺に出ると、そこでは原住民の襲撃に遭った。身体に色を塗りつけた見るからに凶暴そうな男たちが槍を手に手に丸木舟に乗り込んで、対岸から一行目がけて突進してくる。だが小さな舟は端から波にもまれて沈んで消えた。あまりの恐ろしさに一行は恐怖に震え、それから気を取り直して濡れた岩を登っていった。川沿いに進んでいくうちに、二人の人夫が足を滑らせて悲鳴とともに激流に飲まれた。
川の上流では恐るべき猛獣が待ち受けていた。茶色くてごわごわの毛が生えたクマである。こっちへいったりあっちへいったりといった面倒なことは抜きにして、いきなり現われて立ち上がった。立ち上がると大人の倍の背丈があった。クマは前肢で人夫の一人を殴って失神させた。そして失神した人夫を肩に担ぐと、密林の中へ消えていった。しばらくしてから同じクマがまた現われた。近寄ってきて前肢を振るい、失神した人夫を肩に担いで連れ去ろうとしたので、野心家で知られた男はクマに向かってこのように言った。
「図々しいとは思わないのか?」
するとクマは足を止め、振り返って鼻を鳴らすと人夫を担いだまま密林の中へ去っていった。野心家で知られた男は怒りとともにクマを見送り、先頭に立って先を急いだ。野営に適した場所を探して天幕を張り、見張りを立てて夜を過ごし、そして何事もなく朝を迎えた。だが出発の時になって人夫が二人消えていることに気がついた。探してみると一人は松脂にかぶれてのたうちまわり、もう一人は漆をかぶってもがいていた。行動不能となった二人を置いて、一行はさらに密林の奥へと分け入っていった。
雨期でもないのに雨が降り始めた。滝のように雨が注ぎ、川が溢れて密林を浸した。二人の人夫が濁流に飲まれ、一行は危険を察して高い場所を探し求めた。流れる水を脚で分けて、丘を見つけてそこへ逃れた。見ている前で森が沈んだ。雨は降り始めと同じように唐突に止み、空が青く晴れ渡る。そして見渡す限りが海原となり、やがて水平線の彼方から二隻の船が現われた。並んで現われた二隻の船は瓜二つで、どちらも舷側に円窓を並べ、煙突から淡い煙を吐き出している。二隻は波を蹴立てて海を進み、丘の間近までやって来てからくるりと向きを変えて去っていった。船が水平線の彼方に消えてしまうと、水が凄まじい勢いで引き始めた。水の中から木が立ち上がり、森が姿を現わして梢という梢から無量の滴を滴らせる。密林の驚異を目の当たりにした一行は恐怖に震え、丘の上で一夜を明かした。夜明けとともに寝癖頭の黄色い巨鳥が足音をたてて出現し、左右の翼に一人ずつ、あわせて二人の人夫を抱えて去っていった。
密林の恐怖はまだ続いた。一行は丘を後にして森を進み、唐突に森が途切れたところで足を止めた。辺りは一面の花畑で、原色の花が異様なまでに咲き乱れていた。恐るおそるに進んでいくと、花の間から四匹の怪物が現われた。いずれもこどもの背丈しかなかったが、全身を鮮やかな赤や青や黄色に塗って巨大な目を爛々と輝かせ、頭には異様な角を生やしていた。怪物は幼児のようによたよたと走って一行の間に入り込み、まず人夫の一人にハグをした。続いて別の人夫にもハグをして、残りの者にも順にハグをしていった。すべての者にハグをすると、四匹の怪物は花畑の中へ去っていった。恐怖に遭遇しながらも一人も失わずに済んだので、野心で知られた男は喜んだ。だが喜ぶのは早かった。人夫の一人がさらなるハグを求めて花畑へと走り込んだ。残りの人夫もハグを求めて去っていった。後には野心で知られた男と案内人だけが残された。
二人は持てるだけの荷物を持って花畑を越えた。再び森に分け入って、ただひたすらに奥へと進んでいった。苦難に満ちた四昼夜を過ごし、何度も命を落としかけた。小さなクマが踊る姿に恐怖を覚え、多種多様な動物が二列になって進んでくるのを咄嗟にかわした。密林は異常な世界であった。やがて二人は大地の切れ目に到達した。深い裂け目が大地に走り、一つの森を二つに分けて間の行き来を阻んでいた。伝説によれば、失われた小さな国は、その先にある筈だった。
二人は木を切り倒して裂け目に渡した。まず野心で知られた男が橋を渡り、渡り終えたところで手を振って案内人に続くようにと促した。ところが案内人は橋を渡ろうとしなかった。そうする代わりに丸太の橋に手をかけて、渾身の力で持ち上げると裂け目の底へ突き落とした。
「何をするんだ。それでは俺が戻れない」
野心で知られた男がそのように言うと、案内人は腰に手をあててからからと笑った。それから酷薄な笑みを顔に浮かべて、このように言ったのである。
「戻る必要はない。おまえはそこで死んでしまえ。おまえはもう覚えていないかもしれないが、俺の方は忘れていない。あの頃の俺は陰気なガキで、おまえは今と同じように野心に溢れて光り輝いていた。そしておまえは俺を嫌い、俺から女を奪い、仕事を奪い、人生の空しさを味わえと言ってあの谷底に突き落としたのだ」
「どの谷底の話をしているんだ?」
「あんまりたくさんあって、覚えてなんかいられないか? だが俺は生き延びた。そしておまえへの復讐を誓い、文明のはずれにあるあの町でおまえが来るのを待っていたのだ。俺はおまえを見捨てて町へ戻る。おまえは死んだと伝えよう。事実そのとおりになるのだからな」
案内人は再び笑って、それから野心で知られた男に背を向けた。一度も振り返らずに来た道を戻り、木の間から現われたクマに殴られて失神した。クマは案内人を肩に担ぎ、野心で知られた男に一瞥を与えて去っていった。
ここに至って野心で知られた男は人生の空しさを知って野心を失い、その場に倒れて運命を呪った。するとどこからともなく愛らしいこどもの声が聞こえてきた。
「もお一回、もお一回」
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