(ま)
その昔、とあるところにそれは小さな国があった。あまりにも小さいので地図に載ったことがなかったし、旅行者向けの案内書にも載ったことがない。だが、まったく未知のままに捨て置かれていたわけでもなくて、ある種の文献には記載があったし、そうした文献に知識を求める人々は、そこに書かれた内容を読んでその国の存在を知ったのである。
その国には魔王の機械があると言われていた。言われていたというだけで、実際に見た者は一人もなかった。どの本を調べても、それがいかなる機械なのかを説明している部分は一行もなかった。信じられていたところによれば、それは地獄から呼び出された魔王が地上に現われ、まさに現われた証拠として地上に置いていった物であった。だが単なる存在証明であれば機械である必要はまったくない。まがまがしい彫像や不気味な紋章のような物であっても全然構わなかった筈である。機械であるからには、必ず何かしらの機能を備えている筈だと多くの者が考えた。地獄の門を開く仕組みかもしれないし、そうではなくて空に暗雲を浮かべる仕組みかもしれない。門を開くのだとすれば鍵はどこにあるのか、暗雲を浮かべるのだとすれば、浮かべた後には何が起こるのか。その国の誰かが魔王と契約を交わした証だという説も有力視されていた。
正体を確かめようと考えて旅立った者は少なくない。だが戻った者は一人もなかった。その国へと至る道にはいくつかの難所が控えていたとされているので、そのうちのどれかで命を落としたのであろう。そしてそうして行方を絶ったのは一般にいかがわしいと思われていた人々だったので、不幸を知って悲しむ者の数は少なかった。悲しむ代わりにさもありなんと頷く者はたくさんいたと伝えられる。
さて、ある時のこと、一人の裕福な若者がいささかいかがわしい種類の野望を胸に抱き、魔王の機械の正体を確かめようと考えた。道中の難所についての情報を集め、武勇を誇る男たちを護衛にしたがえて出発した。最初の難所は溶岩によって塞がれた海辺の場所で、ここを越えると道は大きく内陸へまわる。その先には誘拐を生業とする人々が住む国があり、その先には追い剥ぎを生業とする人々が住む国があった。森を抜けて川を渡り、そそり立つ山をいくつも越え、崖にへばりついて暮らす人々の町に入って王に追われ、ある筈の国がない場所を抜けて大きな山を一つ越える。そこからさらに山を五つほど越えていくと、山裾に広がる盆地の中にその国はあった。
道の終端に城壁を持つ町があり、町の中にはひなびた風情の建物が並んでいた。建物は異国風ではあったが創意に乏しくて感興に欠け、道を歩く人々の姿もまた異国風ではあったが珍しさよりも鈍重さをより多く感じさせた。空には暗雲もなかったし、立ち並んだ樹木が怪しい闇の光を放つこともない。歩き回って探してみたが、恐ろしい彫像も気味の悪い紋章も見当たらない。住民は黙々として生活に励み、広場には大きな市が立ち、隅の方ではこどもたちが立ち小便で飛距離を競う。魔王が降り立った場所には見えなかった。
それでもどこかに魔王の機械がある筈だった。察するところ、それはどこかの秘密の場所に隠されているのに違いなかった。若者は酒場をまわり、聞き耳をたてて日を費やした。それらしきことを口にする者がいれば金を払って情報を掴み、次第に断片を積み上げていった。まともそうに見える者は概して口が固かった。口の軽い者は多くの嘘で多くの金を得ようと企んだ。無数の断片が集まってきたが、どうしても一枚の絵にはなりそうもない。そのうちに物も言わずに金を奪おうとする者も出現し、揚げ句の暴力沙汰が二度三度と繰り返された。いくつかの店では出入り禁止を言い渡され、当局からは威嚇的な呼び出しを受け、無視していると尾行がついた。
その土地で得たわずかな友人たちは口をそろえて国外への脱出を勧めたが、若者はなおも魔王の機械に拘泥し、それから間もなく逮捕された。よくわからないまま取り調べを受け、起訴され、法廷の中央に引きずり出されて判決を受けた。外国の優越を宣伝した罪で懲役五年と財産の没収。金は奪われ、武勇を誇る男たちは奴隷に売られ、若者は監獄にぶち込まれた。そして魔王の機械とそこで出会った。
監獄には魔王の機械のために働く一団が存在したのである。囚人の有志からなる人々で、魔王の機械のために一生を捧げるという誓いをしていた。看守から話を聞いて若者は興奮し、ただちに志願してその一員となった。技師長と呼ばれるひどく陰気な人物が現われ、若者を監獄の地下深くへと案内した。魔王の機械はそこにあった。高さがひとの背丈ほどある立方体で、表面は艶やかで凹凸がない。悪魔的な意匠も、目に見えるような怪しい仕掛けも見当たらなかった。若者は失望を覚えたが、それでもすぐに気を取り直した。仕事が始まれば、魔王の機械の正体も解明されることになるからである。
若者は机をあてがわれた。技師長はその机の上に分厚い資料を投げ出して、読んでおくようにと言い渡した。表紙に並んだ文字を読んで、若者は再び興奮した。それは魔界の全貌を記した本であった。目を輝かせて読み始めた。食事も寝る間も惜しんで読み続けたが、そこに書かれていたのは魔物を呼び出す呪文でも牛乳に酸味を与える方法でもなく、魔王を頂点とする魔界の行政機構とその運用に関わる諸々の手続きなのであった。後半は文字通りの法令集になり、別冊には申請や報告に用いる書類の各種様式が収められていた。それでも若者は頬を落としてすべてを読み上げ、その旨を技師長に報告した。すると技師長は別の資料を投げてよこした。表紙には基本設計書という文字があり、中には丸や四角を矢印でつないだ複雑な図形が層をなしていた。まるで意味不明の資料だったが、机に戻って身を屈め、書かれていることの意味を推し量ろうと頑張った。そして頬の下に骨が浮き出すまで頑張って、遂に意味を突き止めた。その資料は魔界の運用手続きを図や線を用いて抽象的に表現したものだったのである。技師長に読み終えた旨を報告すると、翌日からは会議に出席するようにと言い渡された。
連日の会議がやがて全貌を明らかにした。その国の誰かが、やはり魔王と契約を交わしていた。その事実に間違いはなかったが、それは地上における魔王の復権を認める契約でも、魂の代償として七つの願い事を得る契約でもない。魔界の合理化についての契約だったのである。魔王、すなわち当事者甲はその恐るべき魔力を使って魔王の機械と呼ばれる謎の装置を地上に運び、当事者乙はその機械に魔界で使用される一連の手続きを入力して合理化と省力化を実現することになっていた。
計画完遂の暁には小悪魔たちはもう報告に紙を使う必要がなくなり、連絡は電子的に緊密かつ速やかにおこなわれるので魔王はいながらにしてすべての状況を掌握できるようになる。そうして魔界事業は効率化に向かって大きく前進する筈であったが、肝心の計画が大幅に遅れるという事態が出現した。技師長は設計を担当した技術者たちの未熟と無能を最大の原因とし、一方、現場の技術者たちはひとの話を聞かない技師長の性格こそが最大の原因であると反論した。おそらくは、いずれも最大の原因なのであった。傲慢と未熟が不手際を産み、そこへ小悪魔たちが無理解と無関心によって災いをふりかけた。予算は消化し尽くして入力作業は足踏みを始め、怒った魔王は空に暗雲を飛ばして損害賠償請求をちらつかせた。双方の歩み寄りによって訴訟沙汰は回避されたが、人間の側は進捗管理における瑕疵を認め、乏しい予算で計画を継続しなければならなくなったのである。設計と入力作業を担当していた下請け業者はとうの昔に逃げ出していたので、当事者乙は国と交渉して原価の安い囚人労働力を手に入れた。
すべてを知った若者は不満を隠すことができなかった。苦労した揚げ句が他人の失敗の尻拭いであることが許せなかった。魔王の機械はもっと無意味でまがまがしい機能を備えていなければならなかった。そこで先に立てた誓いを撤回し、一団からの離脱を申請した。これは認められなかったが、連日の長時間労働に体調を損ない、病気施療を余儀なくされて結果としての離脱を果たした。普通の労役に就いて刑期を終え、苦難の末に帰国した。痩せこけて骨と皮になり、髪は残らず白くなっていたと伝えられる。すぐさま昔のいかがわしい仲間が家を訪ね、若者の変貌に驚きながらも魔王の機械について問い質した。若者は首を振って、自分の口を指差した。帰国の途上で誘拐を生業とする人々の手に落ちて、舌を切り取られていたのである。いかがわしい趣味の人々はこれを魔王の呪いであると考え、そうとは考えなかった若者はいかがわしい種類の本を焼き捨てて、それからは釣りを趣味とした。
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