工場の煙突が黒い煙を吐き出している。束になった煙が太陽を隠した。河は汚泥に浸って悪臭を運び、貝のように軒を連ねた川辺の家では人々が顔を背けて窓を閉ざした。何艘もの艀がつながって、一隻の曳き船に曳かれて黒い河を下っていく。艀の船倉はどれも金網で覆われていた。金網の下では灰色をした生き物がひしめいて、網をつかんで、口を開け、痩せた肩を怒らせながらじっと空を見上げている。艀の列が橋をくぐった。薄い光の下にまた現われた。金網の下の生き物がまぶたのない目で空を見上げた。
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その工場では工員に死者を使っていた。正確には死者ではなくて、死にチャレンジされた人々だったが、医学的には死んでいたし、この問題に関する限り、政治的な正しさよりも医学的な正しさのほうが好まれたので、死者はやはり死者だった。死者を雇う企業は限られていたので、その工場が募集をかけると求人枠の百倍以上の死者が集まった。工場は高学歴の死者を選んで採用し、法定賃金の半分に満たない額を給与として支払っていた。死者たちは賃上げを要求した。拒絶されると組合を結成して工場を占拠し、全員でハンガーストライキに突入した。そして十日間にわたるにらみ合いのあと、工場を包囲していた機動隊が鎮圧命令を受けてピケラインを突破した。機動隊は盾と棍棒で武装していたが、火力による支援は受けていなかった。火力による支援がないまま機動隊が入ってきたことに、まず死者たちが気がついた。続いて機動隊の隊員たちも火力による支援がないまま突入したことに気がついた。盾と棍棒だけでは飢えた死者の大群から身を守ることはできなかった。機動隊は全滅した。死者たちは本能にしたがって、あるいは偽りの人生を捨てて本来の自分を肯定し、血がしたたる生肉を口に運んで空腹を満たした。
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巨大な貝が深海から浮かび上がり、殻を叩き合わせながら突進して潜水艦を噛み潰した。やがて海面に達した巨大な貝は船舶に出会うと体当たりをする、水管から水を浴びせる、噛む、などの仕方で攻撃を加え、数多くの船を沈めながら次第に陸地に近づいていった。海軍と空軍が迎撃のために出動したが、通常兵器では巨大な貝の分厚い殻を打ち破ることができなかった。ついに貝が上陸した。殻の隙間から足を出して、ただごろんと転がるだけで都市の数区画が壊滅した。手段はもはや一つしか残されていなかった。核攻撃の命令が下り、市民と軍が都市から逃れ、撮影に夢中になっていたアホウどもは逃げ遅れた。
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外洋に出て二十日目に船は凪に捕まった。その小さなスクーナー型帆船はマストから帆を垂らしたまま南海の太陽に焼かれていた。水の蓄えが残酷なほどの早さで減っていった。水が尽きると弱い者から狂気の発作に取り憑かれた。ある者は海に飛び込んだ。ある者は自分の血管を開いて血をすすった。またある者は他人の血管を開いて血をすすった。最後に一人が生き残った。風がそよいだ。マストが風を受けて膨らんだ。船が動き、やがて波を立てて進み始めた。彼方に港を認めたとき、たった一人の生き残りはピストルを顎にあてがって引き金を引いた。
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彼は戦場で手足を失い、内臓の半分を失い、顔と性器を失った。彼は後方に運ばれて手術を受けた。医師たちは彼の痛覚を遮断し、彼からさらに多くの部分を取り除いた。手術が終わると医師たちは彼を小さなカプセルに入れた。顔であった部分は酸素マスクで覆われていた。頭には無数の電極が差し込まれた。流動食を運ぶチューブが胃につながれ、排泄物を運ぶチューブが消化管の端につながれた。液体で満たされたカプセルのなかで、彼は悪夢の底から這い上がった。カプセルの小窓から外が見えた。人体を模した金属製の機械が彼と向き合っていた。機械の胸のあたりにくぼみが現われ、そこに彼のカプセルがはめ込まれた。彼は失った自分の手足を思い起こし、心のなかで腕を広げて歩き出した。すると機械がそのように動いた。新たな銃が与えられた。扉の向こうには戦場へつながる道があった。彼は恐れを知らなかった。
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飼っていた馬が死んだので、男は馬の死骸を鍛冶屋に運んだ。鍛冶屋は男の馬を生き返らせた。すると前よりも力が強くなり、前よりも鋤を上手に牽くようになった。男が喜んでいるのを見て隣の男が理由をたずねた。男が理由を説明すると隣の男は自分の馬を殺して鍛冶屋に運んだ。鍛冶屋は隣の男の馬を生き返らせることができなかった。前よりも力が強くなり、前よりも鋤を上手に牽くようになったが、馬は死んだままだった。腐敗が進むと悪臭を放つようになり、そのうちに腹が破れてそこから腸がはみ出してきた。村の人々はたまりかねて隣の男に詰め寄った。隣の男は馬を処分することに同意して、銃を持ち出して馬を撃ったが、一度殺した馬をもう一度殺すことはできなかった。死んだ馬は隣の男を蹴り殺した。
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ドラキュラZERO
Dracula Untold
2014年 アメリカ 120分
監督:ゲイリー・ショア
イェニチェリだった時代に蛮勇を発揮して串刺し公と呼ばれたヴラド公はトランシルヴァニアに戻って領主となって平和に国を治めていたが、オスマン帝国は年貢に加えて少年千人とヴラド公の息子インゲラスを差し出すように要求し、ヴラド公はインゲラスを引き取りに現われたオスマンの兵士たちを殺戮したあと、牙の山に登って魔物から力を受け取って城に戻り、城を攻囲するオスマンの兵士千人を殺戮、領民には修道院への避難を指示し、攻囲軍壊滅の知らせを受け取ったオスマンのメフメト二世は十万の兵を向ける。
ヴラド公がルーク・エヴァンス、メフメト二世がドミニク・クーパー、牙の山の魔物がチャールズ・ダンス。オスマンの軍勢は『神聖ローマ、運命の日 オスマン帝国の進撃』 よりもよほどにお金がかかっている。序盤の設定が微妙に奇妙で抵抗を感じたものの、それなりにアイデアが入っていて、それなりに面白い。チャールズ・ダンスはかっこいいと思う。
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チャッピー
Chappie
2015年 アメリカ.メキシコ.南アフリカ 120分
監督:ニール・ブロムカンプ
2016年、ヨハネスブルグの市警察はテトラバートル社が開発したロボット警官を採用し、ロボットの警官隊は人間の警官の盾となって犯罪者が放つ銃弾の雨に立ち向かい、テトラバートル社のエンジニア、ヴィンセント・ムーアは自分が開発していたほとんどED209な戦闘ロボット『ムース』の予算を減らされてロボット警官の開発者ディオン・ウィルソンに対して憎しみを抱き、そのディオン・ウィルソンは自宅でAIのプログラムの開発を進め、遂に成功するとテトラバートル社のCEO、ミシェル・ブラッドリーを訪ねてそれを自社のロボットにインストールすることを提案するが、ロボット警官の挙動に満足しているミシェル・ブラッドリーは芸術を解するようなロボットの開発を拒絶、ディオン・ウィルソンは廃棄処分が決まったロボット警官22号を会社から無断で運び出すが、そこへニンジャが率いるギャングスタが現われてディオン・ウィルソンを誘拐、ニンジャたちは警官ロボットを無効化するリモコンを寄越せとディオン・ウィルソンに迫り、ディオン・ウィルソンがそんなものはないと突っぱねると、ニンジャはロボット警官22号をギャングスタの味方になるようにプログラムし直せと要求するので、命惜しさに立ち上がったディオン・ウィルソンはロボット警官22号に自分が作ったプログラムをインストールし、おびえたネコのようにふるまうロボット警官22号をニンジャの愛人ヨーランディがチャッピーと命名、ヨーランディがチャッピーに対していきなり母性を発揮する一方、ニンジャはチャッピーにギャングスタの振る舞いを教え込もうと試みるが、ディオン・ウィルソンが仕込んだ抑制のせいでチャッピーは暴力を拒否して絵を描き始め、物陰からその様子を目撃したヴィンセント・ムーアはチャッピーの内部に残ったキーブロックを奪って市内のロボット警官すべてにウィルスを打ち込み、ロボット警官が機能を停止するのを見た犯罪者たちは町へ繰り出して暴動を始め、チャッピーをだますことに成功したニンジャたちはチャッピーを連れて仕事に出かけ、テレビの中継でチャッピーが犯罪に加担したことを知ったディオン・ウィルソンはニンジャたちのアジトに駆けつけるが、そこへヴィンセント・ムーアが開発したムースが現われる。
ディオン・ウィルソンが『スラムドッグ$ミリオネア』 のデーヴ・バテル、ヴィンセント・ムーアがヒュー・ジャックマン、ミシェル・ブラッドリーがシガーニー・ウィーヴァー、チャッピーのモーションと声がシャールト・コプリー。 意識を持ったロボットという何をいまさらな設定と、何をいまさらな結末は何をいまさらという感想を抱かせるし、よくわからない配慮からニンジャ一味のキャラクターに混乱が見えるし、そのせいで終盤の展開はどこか破綻しているように見えなくもないが、この監督が抱いている人間性一般への嫌悪と人間外へ逃避しようとする願望は今作ではっきりと提示され、そのいささか病的な傾向がある種の宿命感として浮かび上がることで、暗くて湿度を帯びた迫力を与えている。方向性は見えたので、できればその先に進んでほしい、という気もしないでもない。
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悪霊が言葉から逃れて豚のからだにもぐり込んだ。悪霊は豚のからだのなかで穢すべき魂を探そうとした。しかし見つけることができなかった。悪霊は豚を悪しざまに罵った。すると豚は悪霊の無知を嘲った。悪霊は怒り狂って豚のからだをあやつった。悪霊にあやつられた豚は垣根を飛び越え、荒れ野に向かって走り始めた。豚はなおも嘲った。からだをあやつられて荒れ野をどこまでも走りながら、悪霊を嘲るのをやめようとしなかった。やがて力尽きて豚は死んだ。悪霊は豚のからだに封じ込められ、豚の死骸とともに朽ちていった。
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大学を出たばかりの若妻は仕事に出かける夫を見送ったあと、ベッドに転がって天井を見上げた。家は海のかなたにある。外国のホテルで天井を見上げて、そそり立つ壁を感じていると、違和感ばかりが募ってきて抜け出したいという気持ちが強くなる。ここは自分の場所ではない、と彼女は感じている。しかし抜け出すこともできなかった。部屋から一歩出れば、外国の風景が押し寄せてくる。どうすることもできなかった。彼女は寝返りを打ち、枕を抱えてまどろんだ。まどろみながら、自分が削られていくのを感じていた。
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海面が丸く盛り上がって大きな水の球になり、泳ぐ人々を包み込んで空に浮かんだ。どこか薄暗い色をした水の球に捕まって、水着姿の人々は逃れようと試みた。あわてながら、口から泡をこぼしながら、球から出ようと必死になって手足をかいた。水を蹴って球の表面に手を伸ばした。しかし近づけない。球の表面には強い力がかかっていた。人々はわずかなところで押し戻されて、悲しみに顔をゆがめて最後の息を失った。溺れていく。溶けていく。ある者は溺れて死んでから溶かされた。ある者は生きながら溶かされた。あとには骨も残らない。球は海に落ちてしぶきを跳ね上げ、球を見上げていた人々は悲鳴を上げて逃げ始めた。
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老人が安楽椅子に腰を下ろしてまどろんでいる。遠くで雷が鳴っている。開いた窓から湿った風が吹き込んできて、机の上の紙をなでた。粘るような黄色い光が窓辺に現われ、光る球が窓を抜けて部屋のなかへ入ってきた。机の上の紙が黒く焦げてまくれ上がった。光る球が安楽椅子に近づいて老人の姿を照らし出した。白髪、くたびれた頬、ペイズリー柄の着古したガウン、パジャマのズボンの青い裾、踵がすり減った皮のスリッパ。老人が薄目を開いて顔を上げた。老人のからだが燃え上がった。ガウンが灰に変わり、老人のからだは炎のなかで溶けて縮んで椅子の上に転がった。黄色い球は天井のあたりに漂っていって、そこで染み入るように消えていった。
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巨人は袋をぶら下げていた。人間を見ると鷲掴みにして捕まえて袋に放り込んでいた。袋の中では人間が逃れようともがいていた。巨人は暴れる袋を肩に担いで、野を越え、山を越えていった。
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荒野はつらいよ アリゾナより愛をこめて
A Million Ways to Die in the West
2014年 アメリカ 116分
監督:セス・マクファーレン
1882年、アリゾナのオールド・スタンプという町の近くで羊飼いをしているアルバート・スタークはあきらかに生まれてくる時代を間違えていて、そのせいで野蛮な西部に付属するあらゆるものを憎悪していたが、同時に西部の男としてのディスプレイがまったくできないという弱点を抱え、当然ながら西部の男としての自己肯定にも難点が抱え、恋人ルースに捨てられて失意のどん底にあるところへ町に現われた女アナと出会ってなぜか意気投合することになり、二人で野蛮な西部に付属する様々なものに憎悪を向けていると互いに肯定的な感情を抱き、そういう関係へ進んだところでアナには実は夫がいて、その夫が野蛮な西部でもっとも凶悪なガンマンであるところのクリンチであることが判明し、町に現われたクリンチはアナを捕えてアルバート・スタークに死を求め、アルバート・スタークは山で出会った先住民から勇気と知恵を授けられる。
セス・マクファーレン監督・主演で、アナがシャーリーズ・セロン、クリンチがリーアム・ニーソン、先住民がウェス・ステューディ、納屋にデロリアンを隠しているのがクリストファー・ロイド、ドラッグで飛んでいるときに聞こえる羊の声がたぶんパトリック・スチュアート、死体を増やすためだけに登場するのがジェイミー・フォックス。シャーリーズ・セロンがなかなかにいい感じだった。モニュメントバレーなどの撮影はきわめて美しいし、ほぼ一貫した古めかしい造作がなんとなくうれしいものの、映画自体はやはりマナティに書かせた脚本をそのままなぞったような気配があって、とにかくゆるい。笑えるところはたくさんあるが、とにかく下品。
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アイアン・メイデン 血の伯爵夫人バートリ
Bathory
2008年 スロヴァキア/ハンガリー/チェコ/イギリス/フランス 135分
監督:ジュラジ・ジャクビスコ
1575年、トランシルヴァニアのエリザベート・バートリはハンガリー貴族フェレンツと結婚、フェレンツがオスマントルコとの戦争で出征するあいだにミラノ出身の画家と出会って関係を持ち、1604年、夫が亡くなるとハンガリー副王トゥルゾーがエリザベートの財産をねらって陰謀を画策、大量殺人の容疑を捏造する、というような内容で、ミラノの画家がなぜかカラヴァッジョだったり、カトリックの密偵があれやこれや秘密兵器を使ったりとか、妙な要素が盛り込まれていて、エリザベート・バートリ本人については恋もするし苦悩もするふつうのご婦人だったということになっているけれど、当時のハンガリーの、そもそも血の気が多い上にあっちにはオスマントルコ、こっちにはハプスブルク、手元でも内輪もめ、というややこしい状況のなかでふつうでいるのはかなり難しかったのではないかという気がしないでもない。アンナ・フリエルはヒロインを熱演しているが、そういうわけでリアルな人物には見えてこない。時代考証は寄せ集めだが、雰囲気を出そうとがんばっているし、オスマントルコとの微妙に素人くさい戦闘シーンもそれらしくて決して悪くないものの、だれ場が目立つ。
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蝶の羽を持つドラゴンが咲き乱れる花のあいだを舞っていた。青地に黄色い渦が入った羽をはためかせて、白い花弁に足をかけると花の蜜に向かって舌を伸ばした。舞い上がる。青い羽から鱗粉が散る。鱗粉が光に馴染み、風に吹かれてドラゴンを追った。
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戦争が終わってしばらくしてから、男は村にやって来た。ぼろ靴を履いて、継ぎのあたった灰色の兵隊外套を着て、額に汚れた包帯を巻いた姿で無一文でやって来て、いつの間にか村に居ついていた。初めのうちは橋の下で寝ていたが、気の毒に思った神父がいなくなった堂守の後釜にすえることにした。男は教会の脇の小屋をあてがわれ、昼のあいだは神父に言われるままに雑用をして、夜になると小屋で眠った。ある晩、男は物音を聞いて目を覚ました。小屋の外になにかがいた。ランプに火を灯して外に出て、気配を追って闇のなかへ入っていった。教会の裏手には墓地が広がっていて、古い納骨堂が一つあった。背中を丸めて歩く黒い影が納骨堂の入り口をくぐった。男は納骨堂に踏み込んで、影が石棺の背後にまわるのを見た。男はランプを掲げて近づいた。石棺の足下にひとがくぐれるほどの穴が開いていた。穴に顔を寄せると、腐臭がはっきりと漂ってくる。男は腕を伸ばして穴のなかをランプで照らした。光が女の顔を照らし出した。青白い肌をして、光彩がほとんどなくなった目で、男を静かに見上げていた。男が見つめ返すと、女が手を差し出した。女が男の手を握った。女がゆっくり手招くと、男はランプを床に置いて穴のなかへ入っていった。
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それは下水道に潜んでいた。それは選り好みをしなかった。流れてくるものならなんでも食べて、とてつもない大きさになっていた。寝返りを打つと下水の壁が崩れ始めた。様子を見に下りてきた人間はそれの腹に収まった。あまりにも大きくなったので、下水道にいるのが難しくなっていた。地上ではそれに関する噂が流れていた。ワニだと言う者がいたが、ワニではなかった。ヘビだと言う者がいたが、ヘビではなかった。なにかの群体ではないかと言う者がいたが、そうではなかった。それがゆっくりと首をもたげた。しぼんだ口に顎の先が現われた。口が大きくまくれ上がって、向かい合った六つの顎が現われた。それは顎を振り動かして、下水の天井を打ち砕いた。崩れ落ちてくる煉瓦や砂利をものともしないで、それは地上に躍り出た。
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凍てついた風が極地の大地を削っていた。氷が槍のように飛ぶなかを灰色の巨大な影が歩いていた。腕を垂らして、白に染まった世界に目を凝らして、重たい足音を響かせていた。それが雲に向かって叫びを放った。雲が割れた。大地が轟き、風の叫びがしりぞいていった。
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彗星探査機の姿勢制御装置がガスを小刻みに吐き出した。管制センターの大型モニターに彗星の全景が映し出された。探査機が彗星に向かって近づいていく。探査機から送り出された計測結果がモニターの上を流れ始めた。なにかが画面を横切った。生物のようなものが探査機に向かって近づいてくる。探査機のカメラがそれを捉えた。体長は二メートルを超えている。凶暴な牙を生やした下顎を叫ぶように開いている。それは大きく広げた翼で羽ばたいていた。開いた口がカメラに迫った。映像が途切れ、管制センターは探査機との接触を失った。
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夕陽を浴びて流れる川の上をなにかの群れが飛んでいた。一つのかたまりになって一気に空へ駆け上り、舞い降りてきて流れるように川原を横切り、川を見下ろす土手を越えて住宅地の上に弧を描いた。一つひとつは小さかった。鳥のように見えたが、それは翼を持っていなかった。魚のようにも見えたが、トビウオのような鰭を持っていなかった。針のような形だった。それがどのような方法で飛んでいるのか、生き物なのか、それとも違うものなのか、多くのひとが空を見上げて、その正体を明かそうとした。一つが群れから離れて古い板塀にぶつかった。板をつらぬいて塀を抜けると群れに合流して舞い上がった。それは町の上空をしばらく飛んで、黄昏の光のなかを西のほうへ消えていった。
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北極の氷の下から巨大な亀が出現した。この亀はホッキョクグマも顔をしかめる冷たい海を平然と泳ぎ、あり得ないことに炎を食べ、さらにあり得ないことに高速で回転しながら空を飛んだ。文明圏に到達すると現代人の疎外感を扱った文芸批評で一世を風靡し、神秘主義に関するひとを舐めたような著作に手を染めたあと、殺人に関する広範かつ浅薄な研究成果を発表した。その後はおもにワインの批評をしているという。
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コンクリートで補強した掩蔽壕の入り口にツタのような草がしがみついていた。初めはそこだけかと思ったが、よく見るととあちらこちらに同じような草が生えていた。機銃陣地の土嚢の下、便所の入り口、応急医療所の柱のうしろ。放棄された対抗壕の壁はこの草でほとんど覆われていた。待機状態のまま塹壕で朝を迎えたときのことだ。痛みを感じて手を見ると、緑色のつるが絡みついていた。剥がすと赤黒い跡が点々と残った。指で押すと開いた穴から血がこぼれた。つるには小さな吸盤のようなものがついていて、どうやらこれで血を吸っているらしい。ぼくらは草を抜いて、塹壕の外に投げ捨てた。本当は焼きたかったが、焼けば煙が出るし、煙が出れば敵の狙撃兵に的を教えることになる。片端から抜いていっても、草はすぐに生えてきた。抜くのが間に合わなくなってきた。つるが服のなかにもぐり込んで、背中や腹に絡みついた。下着のなかにまでもぐり込んで、ぼくらから血を吸い上げた。つるの色が次第に赤くなっていく。草の色も次第に赤くなっていく。ぼくらは草のあいだに沈みながら、次第に血の色を失っていく。
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大学の環境調査プログラムが環境学者と数人の学生をとある島に送り込んだ。その島を囲む海は汚染が深刻な状態に達していた。周辺の農場からは化学肥料や抗生物質、成長促進剤が流れ込み、近くにある化学工場からは大量の廃液が流れ込んでいた。大量死した魚が浜辺を埋め、そこに大量死した海鳥の死骸が重なった。島の漁業は壊滅的な打撃を受け、もともと決して豊かではなかった島の住民は極貧層に転落した。環境学者と学生たちは浜辺を歩いてサンプルを集め、住民を集めて話を聞いた。住民の多くは栄養失調の状態にあり、しかも未知の疾患に冒されていた。かなりの数の住民に認知症の症状が認められた。骨が変形している者もいた。皮膚疾患に冒されて外見が変わっている者もいた。集会のあと、環境学者と学生たちは重症患者の様子を見て回った。ヤシの葉を編んだあばら家のなかに動けなくなった患者が転がっていた。全身が腫瘍に覆われ、腕や脚が奇怪に曲がり、人間の言葉を失ってけだもののように呻いていた。環境学者も学生たちも正視することができなかった。逃げるように島から戻って、悪夢にうなされる日々を迎えた。
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純白の地に金糸の刺繍が入った制服は沼の泥で汚れていた。少年たちは待機していた。旧式の、銃身がやけに長いライフルを抱いて、空腹と渇きに耐えて待機していた。弾は一人に五発しかなかった。遠くで馬が嘶く声がする。砲声がする。年老いた大尉がサーベルを抜いた。突撃、と叫んで走り始めた。少年たちも走り始めた。重たいライフルを前に掲げて、大尉を追って走り始めた。少年たちが叫んでいる。機銃が火を噴いて草を刈り、少年たちをなぎ倒した。草の陰に転がって、あまりの苦しさにうろたえながら、一人また一人と息絶えていった。
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彼は彼女に恋をしていた。彼女は彼に恋をしていた。しかし二人がともに抱く革命的な思想は感情を過去に追いやり、未来へと続く理性の道を開いていた。理性の後光を帯びた高潔な魂は旧世界の悪徳に根差した肉欲を滅ぼし、二人を透明な同志愛で結びつけた。二人は崇高な理想のために結合を果たし、革命の子等を野に生み落した。革命はまだ成就していないので、革命の子等には靴がない。革命は発展の段階にあるので革命の子等には服がない。実を言えば食べ物もない。しかし彼らの未来は約束されている。彼らには間に合わないかもしれないが、彼らの子孫には約束されている。彼らはその手形として一丁の銃と一発の弾を受け取った。彼らはそれで階級敵の砦に立ち向かった。彼らは革命に命を捧げ、革命の兄弟姉妹はなおも生まれ続けている。
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神は大いなる首の姿を取って現われた。男は祈りを捧げて生贄の羊を屠ったが、毛皮を剥ぐことも内臓を取り出すことも肉を取ることも脂肪を分けることもしなかった。男がなにもしなかったので、神はまるのままの羊を口にくわえた。恨めしそうな目を男に向けると言葉を残さずに天に昇った。
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警官たちは男を路地の奥に追い詰めた。男は自動小銃で武装していて、すでに十人を超える一般市民が撃たれていた。警官も二人撃たれていて、しかもどちらも重傷だった。そろそろ終わりにしなければならなかった。警官たちは武器を構えて前に進んだ。男がいた。胸や腹を撃たれて血まみれになって、普通ならば立っていられるはずがないのに、男は立って武器を構えて、なぜか笑みを浮かべていた。誰かに指図されたわけではなかったが、警官たちは頭を狙った。警官たちの銃が火を噴いて、男の頭が吹っ飛んだ。からだが倒れて濡れた地面に転がった。男の顔の残骸から、なにかがゆっくりと這い出してきた。虫のようにも見えるが、虫にしては大きすぎる。それはいきなり飛び上がって一人の警官の顔に貼りついた。と思う間もなく口からなかへ滑り込んだ。その警官が笑みを浮かべた。武器を構えて、同僚に向かって発砲を始めた。
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土曜日の夜、繁華街の一角にある古いクラブで事件が起こった。連絡を受けた麻薬課の刑事たちはサイレンを鳴らして事件の現場に急行した。暑苦しいネオンの向こうに警察の車や救急車の回転灯が見えてきた。すでに規制線が張られていて、道に野次馬があふれていた。着飾った若者たちが騒いでいる。群衆整理の警官が口にメガホンを当てて叫んでいる。きれいな娘が地面に倒れて救急隊員の手当てを受けていた。パニックの発作を起こしたようだ。刑事たちが目配せをした。なぜか殺人課の連中がいる。鑑識が到着してプラスティック製のオーバーシューズを配り始めた。刑事たちは見栄えのしないそのしろものを靴にはめて、手袋をつけて、クラブの階段を下りていった。なかは暗い。まだブラックライトがついている。地下二階まで下りていくあいだに赤い非常灯に変わったが、暗いことには変わりがない。ダンスフロアの中央になにかが山盛りになっていた。懐中電灯の光がその山をなめて、人間の顔や手足を照らし出した。何十人もが溶け合って、一つの肉のかたまりになっていた。突き出た手足や頭が動いている。苦悶に顔をゆがめている。顔の一つで口が動いて、助けて、とささやいた。誰かがからだを折って吐き始めた。刑事たちには言葉がなかった。
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楽に稼げると聞いて彼は話に乗ることにした。指定されたバーに夜半過ぎに集まって、全員で配送用のバンに乗り込んだ。港湾地区の倉庫街に入っていって、とある倉庫の前に車を停めた。買収された警備員が倉庫のドアを開けて待っていた。彼は仲間と一緒になかに入って、懐中電灯の明かりを頼りに目当ての物を見つけ出した。金属製の棺桶が整然と積み上げられている。一つひとつが妙に大きい。この大きさなら、どんな大男でも収まりそうだ。情報ではこの棺桶のどれかに洗浄済みの現金が小額紙幣で詰め込まれているはずだった。仲間の一人がバールを出して棺桶の山によじ登った。蓋をこじ開ける音がする。悲鳴が上がって仲間が転がり落ちてきた。首がない。懐中電灯の光を向けた。人間と昆虫の合いの子のようなものが血のしたたる顎を動かしている。それは蝙蝠のような翼を広げて仲間に襲いかかり、彼は狙いを定めずにショットガンの引き金を引いた。
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男は自分の小屋で蒸留酒を作って、それを町に運んで売っていた。男の小屋は山奥にあって、そこから町へ出るには地元の者しか知らない道をうねうねと抜けていかなければならなかった。男はできあがった酒を車に積んで、夜中にこの道を下っていった。うねうねしている上にでこぼこしているその道は、目立たない藪をはさんで新しい国道とつながっていた。国道に入るとそこから町までは一直線で、男はここをニトロを使って猛スピードで駆け抜けた。警察が道を見張っていたが、男に追いつくことはできなかった。男はいつも満月の晩を選んでいた。だからその日も満月だった。国道に出ると、すぐに警察が男の車を追いかけ始めた。男はスピードを上げていった。国道をはさむ黒い森が月の光を浴びている。男はニトロを使って一気に警察を引き離した。そこへ間近からすさまじい光が降り注いだ。すぐ脇をなにかが飛んでいた。飛びながら強い光を放っていた。光を放ちながら近づいてきた。男はそれを避けようとした。車が勢いよく横転して、酒の容器が壊れたところに火花が散った。男は一瞬で焼け死んだ。警察が追いついたときには車は炎に包まれていた。そして警官の目の前で、光を放つ円盤型の物体が夜空に向かって消えていった。
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