(る)
その昔、とあるところにそれは小さな国があった。あまりにも小さいので地図に載ったことがなかったし、旅行者向けの案内書にも載ったことがない。その国に至る道は暗い森にはさまれて木の根にしだかれ、緑の苔に埋もれていた。森の先では水を豊かにたたえた泉が静謐の底に横たわり、道は泉を回りながら生い茂る草の中へ消えていった。泉を背にして奥深い木立を抜けていくと、川のせせらぎが聞こえてくる。木立の先には野原が広がり、野原の中央には壁に蔦を絡めた町があった。町にひとの気配はない。辺りには一つの人影もない。
ある時、一人の旅人がふとした気まぐれから街道を離れて森へ踏み込み、泉の脇を通って木立をくぐり、町の前に立って門を叩いた。一夜の宿を求めるつもりであったのか、それとも単なる好奇心からそうしたのか、いずれであったのかは知られていない。何度叩いても返答がないので壁を伝って調べていくと、開いている通用門が見つかった。
旅人は町の中へ入っていった。狭い石畳の道が縦横に走り、道の両脇には窓を並べた家々が層を重ねる。だが路上に人影はなく、家の中にもひとが動く気配はない。息をひそめる者もない様子で、耳を澄ましても物音一つ聞こえない。料理の匂いもしなければ、汚物の臭いもしなかった。よくよく見れば傾いでいる看板があり、鎧戸ははずれかかって窓から下がり、いくつかの家ではたわんだ壁が傾いていた。町が住む者を失って久しいことは明らかであった。どの家もくすみ、荒廃の兆しの中で佇んでいた。いずれは朽ち果てて消える運命にあった。ところがよく見ると補修を受けた痕跡がある。縄を巻きつけて傾きを直した看板があり、板を打ちつけて窓に止めた鎧戸があり、真新しい丸太を斜めにあてがわれた壁があった。いかにも不器用ではあったが、ひとが手を入れた跡には違いなかった。旅人はいぶかり、それから一軒を選んで中へ入った。
そこは商人の家であった。足を踏み入れると同時にすえたような臭気が顔を覆う。床には藁の残骸が散り、蜘蛛の巣が垂れ下がる棚には大きな樽が並んでいた。樽の一つに寄って栓を抜くと、中から琥珀色の液体が迸った。匂いに誘われて鼻を近づけ、舌を差し出して味を確かめた。葡萄酒はひどく枯れた味がした。栓を戻して、奥の部屋へ入っていった。壁に大きな炉が穿たれ、棚にはいくつもの壺が並び、部屋の中央にはがっしりとした食卓が置かれていた。壺の底では干涸びた種や干涸びた葉が見つかった。床には水甕が置かれていたが、中には一滴の水も残っていない。食卓の上は白い埃で覆われていた。
旅人はさらに奥へと続く扉を開けた。扉の向こうには柱廊をめぐらした中庭があり、中庭の中央では水盤に水が貯えられていた。旅人は水盤の前に進んで顔を上げた。頭上には吹き抜けを囲んで鎧戸を下ろした窓が並ぶ。旅人はそこで初めて声を出した。
「誰か、いませんか?」
だが返答はなく、辺りに動く物の影はない。もう一度呼びかけてから、柱廊の奥に見える両開きの扉に近づいていった。
そこは主人の部屋であった。広くはないが多くの物が壁に並び、床にも木箱や小箱の山があった。どれもが埃をかぶり、小振りな机は蜘蛛の巣に覆われている。旅人は机に歩み寄り、蜘蛛の巣をはらって顔を近づけた。机の上に、蝋をこびりつかせた小さな燭台が転がっていた。旅人は燭台を手に取った。指の先でくすみを擦り、目の前に掲げてじっと睨んだ。そして燭台を素早く懐に隠し、振り返ったところで剣の切っ先と対面した。
剣を握っていたのは白髪を乱した男であった。顔は白い髭に埋もれて目と鼻以外は見ることができない。吊り上がった目は血走り、尖った鼻はわずかに赤みを帯びていた。
「そいつを戻せ」
そう言いながら男は剣を突きつけた。
旅人は頷いて、手を懐に差し入れた。
「ゆっくりとだ」
旅人は再び頷き、ゆっくりと燭台を取り出して男に差し出した。すると男は首を振り、剣の先で旅人の背後を指し示した。
「元へ戻すんだ」
そこで旅人は男に背を向け、机の上に燭台を戻した。振り返って両手を上げたが、男は剣を下ろそうとしない。
「よし。ほかに盗んだ物は?」
「葡萄酒を少し」
「そいつは大目に見てやろう。そのほかには?」
「何も。着いたばかりだ」
「嘘だったらただじゃおかねえから、そう思え」
「本当だ。何も盗ってない」
「誓え」
「誓う」
ようやく男は剣を下ろし、それから背後に顎をしゃくってこのように言った。
「町から出ていけ」
だが旅人は拒んだ。男が身分を明かしていなかったからである。家の者には見えなかったし、下働きの者だとしてもいささか汚れ過ぎていた。まして役人とは見えず、むしろ泥棒のように見えてならなかった。泥棒だとすれば邪魔者を追い出した後で何を始めるかは明らかであり、そうであるとするならばただ引き下がって独占を認める理由がない。旅人は泥棒ではなかったが、機会を見過ごさない程度の柔軟さを備えていた。旅人が身分を尋ねると、留守番であると男は答えた。
町が無人となった事情については、男は何も知らなかった。男は自分の父親から仕事を継ぎ、父親もまたその父親から留守番の仕事を引き継いでいた。仕事のためには留守番の心得が残されていて、それによれば男は無人の町における法の執行者であり、資産の管理人であり、また同時に修繕も掃除もする用務員でもあった。無法者を追い払い、なくなる物がないように注意を払い、壊れたところがあればそこを直し、あるいはそれ以上壊れないように対策を講じる。掃除は嫌いだと溜め息をついた。一人ではとても手が回らないとうなだれた。仕事以外のことも、すべて一人でこなさなければならなかった。朝には水を汲み、昼には薪を割り、夕には火を焚いて食事を作った。その合間に仕事をこなし、畑の手入れにも気を配るので夜には疲れ果てているという。
「でもよ、食うには困らねえ。誇りだって感じてる」
男はそう言いながら、旅人を門まで見送った。門の前で、旅人は足を止めた。そして男に歳を尋ねた。よくわからない、と男は答えた。男の後は誰が仕事を継ぐのかと尋ねると、息子が継ぐという返答がある。その息子はどこにいるのかと尋ねると、男は笑みを浮かべて腹を叩いた。
「さあな。ここかもよ」
それから真顔になって、町のことを口外しないようにと旅人に頼んだ。旅人が約束すると、礼だと言って小さな宝石を差し出した。町の資産の一部だが、経費として認められているという。旅人は留守番に挨拶を送り、留守番は旅人に挨拶を送って町の門を固く閉ざした。
旅人は約束を守らなかった。国へ戻ると酒を飲んで宝石を見せ、手に入れた経緯を周りの者に話して聞かせた。町に眠る財宝について、多少の尾鰭をつけたことは言うまでもない。盗賊どもは話を聞いてすぐに飛び出し、行動力で劣っていても残忍さでは負けない者は旅人を殺して宝石を奪った。旅人の死後も話は残ってひとの口から口へと伝えられ、やがて噂となって王の耳に届けられた。王は話に関心を抱き、兵を送って留守番の男を捕えさせた。町にはすでに盗賊どもによって火が放たれていた。男は焼け跡に立ち尽くしていたところをおとなしく捕まった。王は男に拷問を加えた。だが男は最後まで口を割ろうとしなかったので、男の腹から子を得る方法は明かされることなく闇に消えた。
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