2013年4月30日火曜日

シン・シティ

シン・シティ
Sin City
2005年 アメリカ 124分
監督:ロバート・ロドリゲス、フランク・ミラー

真面目ひとすじのハーティガン刑事は町の有力者ロアークの残虐な息子の手から少女を救い出すが自らは凶弾に倒れ、屈強の肉体を誇るマーヴは殺された娼婦ゴールディの仇を討つために町の有力者ロアークの農場に迫り、何やら過去を背負った男ドワイトは娼婦たちを助けて危険に立ち向かう。
おおむね三つのエピソードがおおむね順番に登場し、ハーティガン刑事がブルース・ウィリス、マーヴがミッキー・ローク、ドワイトがクライヴ・オーウェンで、最初と最後にジョッシュ・ハートネットがなんだか悪い奴で顔を出し、悪い警官がベニチオ・デル・トロ、不気味な殺し屋がイライジャ・ウッド、町の有力者ロアークがパワーズ・ブースで、その兄の悪い枢機卿がルトガー・ハウアー。映像はそれなりに造形的で、過激な描写にもそれなりのスタイルがあるが、全体としての構築力は感じられない。まったく無反省なまま単細胞かつ悪趣味にデザインされた「ハードボイルド」なキャラクターはどちらかと言えば凄みよりもおかしさを感じさせ、つまるところ、これもまたロバート・ロドリゲスの仕事なのだと考えれば、つまり笑わなければいけないのではないか、という気持ちになってくる(スペシャルゲスト監督クエンティン・タランティーノ、というあたりで真面目さを疑っておくべきであろう)。実際、笑わずには見ていられなかったが、それでいいのだと思う。






Tetsuya Sato

2013年4月29日月曜日

チレラマ

チレラマ
Chillerama
2011年 アメリカ 115分
監督:アダム・リフキン、ティム・サリヴァン、アダム・グリーン、ジョー・リンチ

ドライブインシアターで巨大化した精子がニューヨークを襲う50年代風怪獣映画『Wadzilla』、高校生の男の子が性的に興奮すると熊男に変身して人間に襲いかかる60年代ビーチ映画風(しかもミュージカル仕立て)の『I was a Teenage Werebear』、アンネ・フランクが隠れ家で発見した祖父の日記、というのがフランケンシュタイン博士の日記で、これを手に入れたヒトラーが実験室で正統派ユダヤ教徒の怪物を作り上げる『Diary of Anne Frankenstein』(ダイアログは全部ドイツ語)が順に上映され、最後にもうどうしようもない映画の上映が始まったころ、劇場職員が妻の墓をあばいて持ち帰った口には出せないような物質が売店のポップコーンに混入したことで観客がゾンビ化して暴れ始める。 
オムニバス形式で、劇中映画が3本とその外側に1本という構成になっていて、ショットガン片手にゾンビと戦うドライブインシアターの経営者がリチャード・リール、『Wadzilla』では巨大精子と戦う軍隊の将軍役でエリック・ロバーツが登城し、原因を作る泌尿器科の医師レイ・ワイズがまことしやかに放射能の危険性を訴える。ネタがしつこいくらいに下半身に集中していて、ほぼ全編が露悪的で、はっきり言って顔をそむけたくなるような場面もあったけど、くだらない映画が好きだ、という気持ちは非常によく伝わってきた。 


Tetsuya Sato

2013年4月27日土曜日

アイアンマン3

アイアンマン3
Iron Man 3
2010年 アメリカ/中国 133分
監督:シェーン・ブラック

『アベンジャーズ』のチタウリがよほどに恐ろしかったのか、あるいはあのときの自由落下が恐ろしかったのか、あるいはシャワルマで激しく盛り下がったことがトラウマになったのか、そのあたりのところがいまひとつ判然としないものの、つまりニューヨークのあの一件でPTSDを抱えてささいなことでパニック状態に陥るようになったトニー・スタークの前に1993年にベルンでトニー・スタークに待ちぼうけを食らわされて以来、すっかり絶望のとりことなった男アルドリッチ・キリアンが現われてアメリカにテロをしかけるので、ケロロ軍曹がガンプラを量産するようにアイアンマン・スーツを量産しているトニー・スタークが立ち向かう。
アルドリッチ・キリアンがガイ・ピアースで、みずからを遺伝子改造した結果、口から火を吹いたりするのである。そしてそのガイ・ピアースにあやつられているアラブないんちきテロリストを演じるのがベン・キングズレーで、これが素敵なくらいに集中力を欠いているのである。小さなところから大きなところまでアイデア満載で、そのアイデアが実にうまく消化されていて、シチュエーションだけをとらえれば暗くなっても不思議がないような内容を最後までコミック演出で持たせてしまうのである。トニー・スタークが次から次へとスーツを「着替える」ところが意外なくらいに見せ場になっているし、量産されたアイアンマンが軍団になって現われるところは感動的に盛り上がるし、マーク・ラファロはただ居眠りをするためだけに登場するし、という具合で実においしい。ジョン・ファヴローの顔出しが少々邪魔ではあるものの、グウィネス・パルトローの腹筋と豊富に盛り込まれたアイデアと確実にテンションをたもった演出によってシリーズ最高作に仕上がっている。 


Tetsuya Sato

ジョナ・ヘックス

ジョナ・ヘックス
Jonah Hex
2010年 アメリカ 81分
監督:ジミー・ヘイワード

南北戦争中、南軍のクエンティン・ターンブル将軍は病院への攻撃を命令し、その命令を拒否したジョナ・ヘックスは軍から離れて自宅に戻り、怒ったターンブル将軍に捕えられて家族を殺されて顔に焼き印を押され、あやうく死にかけたところをアメリカ先住民の呪術によって救われて、以来、死者と言葉を交わす能力を備え、賞金稼ぎなどをして糊口をしのいでいると、死んだはずのターンブル将軍がまだ生きていて、軍から最新兵器を奪って軍勢を集め、モダンな無差別テロをしかけようとしていることが判明するのでジョナ・ヘックスはグラント大統領の特命によってターンブル将軍を追うことになる。
ジョナ・ヘックスがジョシュ・ブローリン、ターンブル将軍がジョン・マルコヴィッチ、ヒロイン役がミーガン・フォックス。グラフィック・ノベルの実写映画化、ということでいかにもな絵作りながらおおむねにおいて画面はまとまっているが、構成が大雑把なせいなのか、面白さにつながらない。装甲艦(スクリュー推進)、艦載用の巨大ガトリング砲やその自動装填装置なども登場するが、これもただ出てくるだけでどれもいまひとつ面白くない。たぶん見せ方がうまくない。ちなみにジョナ・ヘックスは自分の馬の両側に一門ずつ、あわせて二門のガトリング砲を積んでいるが、その重量を抱えて馬がふつうに走るというのはずるであろう(火力でやたらと勝っていたり、挨拶している敵に向かって斧を投げたり、死にかけるとどこからともなくインディアン・パートナーが現われて復活させたりとジョナ・ヘックスはとにかくずるが多い)。 





Tetsuya Sato

2013年4月26日金曜日

収容所惑星

プリズナー・オブ・パワー 囚われの惑星
Obitaemyy ostrov
2008年 ロシア 119分
監督:フョードル・ボンダルチュク

人類が医学的に改良された22世紀の未来で二十歳の若者マクシムは単座の小型宇宙船で格別の考えもなしに宇宙探査の旅に出て、隕石と衝突してとある惑星に不時着すると、いきなり銃を向けられて逮捕され、ガイと名乗る兵士に護送されて都市へ移され、そこで怪しい方法で記憶を探られているうちに怪しい機関の手で解放され、別の場所へ移送される途中で護送担当者がいきなり口から泡を吹き、都市住民はその様子を見て騒然となり、どさくさに紛れてその場から逃げ出したマクシムはラダと名乗る娘と出会い、これがガイと名乗る兵士の妹で、マクシムはラダの家でガイと再会し、ガイの推薦で親衛隊に入隊し、訓練では資質を示してミュータント狩りに駆り出され、ミュータントを尋問する様子を見て疑問を抱くと上官に反抗して胸に数発の銃弾を受け、医学的に改良されているので傷はすぐさま自然に治癒して今度は反政府組織の一員になり、政府が怪光線で国民をあやつっていると聞いたマクシムは先頭に立って怪光線の発射施設の攻撃に加わり、逮捕されて矯正施設に送られるとそこで反政府組織のメンバーと出会って新たな情報を仕入れ、抑圧的な体制を倒すために脱走して廃墟に住むミュータントの一派に決起を促し、断られると隣国を訪れるために空路を進んで撃墜されて懲罰部隊に送り込まれ、隣国との戦争の最中に例の怪しい機関の手で都市へ移されて研究所でなにやら仕事のようなことをしていると政治的に追い詰められた権力者から声がかかって怪光線発射施設の破壊を持ちかけられるので、言われるままに乗り込んでいって施設を破壊すると国民は洗脳状態からいちおう解放されるが、いずれにしても格別考えた上での行動ではなかったので、その事実を指摘されるとぼくがなんとかすると居直って愛に逃げ込む。 
監督は『アフガン』のフョードル・ボンダルチュク。ストルガツキー兄弟の『収容所惑星』の、あまりよく覚えていないけど、妙にふらふらしている部分も含めておおむね忠実な映画。オープニングのタイトルがグラフィックノベル風に仕上げられていて(しかもなぜか効果音がカタカナで「ドドド」とか「ギー」とか書いてある)、その様子から判断するといったんコミック化を経たあとの再話という形で考えたほうがおそらくわかりやすい。セットやエキストラなどを見るとかなりお金がかかっている気配があって、プロダクション・デザインなども頑張っているし、洗脳戦車に督戦された囚人戦車部隊の突撃などというけったいなシーンも登場するが、演出は全体に即興が目立ち、手間を惜しんだテレビ映画を見ているような気分になる。 


Tetsuya Sato

2013年4月25日木曜日

ダイダロス 希望の大地

ダイダロス 希望の大地
Myn Bala
2012年 カザフスタン 133分
監督:アハン・サタエフ

察するところ18世紀中葉、オイラト系のジュンガルの侵攻を受けたカザフの民はジュンガルに隷属するか遊牧地を明け渡して山間部に逃れて生き延びていて、そうした状況でジュンガルに村を襲われて父親を殺されたサルタイは成長すると仲間とともに草原へ出かけてジュンガルを狩り、なにしろカザフなのでそのようなことをしている人びとがどうやらほかにもたくさんいて、そのような流れに乗って結束のないカザフが結束をかためて一万五千の軍勢をそろえてジュンガルを討とうとたくらむので、ジュンガルも二万の兵士をカザフの軍勢に差し向け、圧倒的に優位に立ったジュンガルによってカザフが押されているところへもろもろの苦悩をかなぐり捨てたサルタイが百騎を率いて戦場を駆け抜け、ジュンガルの本陣に肉薄する。 
まじめに書かれた脚本をまじめに撮ってまじめに作った映画で、抜きん出たところはないものの、余計なところはほとんどないし、手間を惜しんだようなところはどこにもない。カザフやジュンガルの風俗が魅力的で、馬が実にあざやかに走り、弓矢が見たこともないほどなまめかしい弧を描いて宙を駆ける。クライマックスの集団戦闘はやや抑え目の演出になっているが、そこに至るまでの草原における少人数の戦いは実にスタイリッシュでかっこいい。騎馬による機動戦ぶりも半端ではなくて、ジュンガルの軍勢が鉄砲や弓で防御陣を敷いていても被弾するのを盾でかわして、馬上から弓を射返しながら一気に防御陣を突破する、という場面はちょっと恐れ入った。 それにしてもこの意味不明の邦題はいったい誰が考えたのか。



Tetsuya Sato

2013年4月24日水曜日

オルド 黄金の国の魔術師

オルド 黄金の国の魔術師
Orda
2012年 ロシア 125分
監督:アンドレイ・プロシュキン

14世紀中葉、キプチャク・ハン国のハン、ティニベクが兄弟のディニベクによって暗殺され、ハンの位を継いだディニベクが母タイ・ドゥラに祝福を求めるとタイドゥラは祝福を拒んで斧で自分の指を切り落とし、そのタイドゥラがまもなく視力を失うとディニベクは四方八方から医師、魔術師のたぐいを呼び寄せて母の治療にあたらせるが、まったく効果を得られないのでモスクワ大公国に使者を送ってイヴァン大公を戦争の恐怖で脅して府主教のアレクシイをサライに呼び寄せ、アレクシイはタイドゥラの前に出て神に祈りをささげるが治療の効果を得ることができないために追放されて野をさまよい、思うところからサライへと送られるロシア人奴隷の列に加わってサライに戻り、そこで浴場の釜炊き奴隷となって苦しみを味わい、ディニベクはアレクシイにさらに大きな苦しみを与えるために毎日一人ずつロシア人奴隷を殺していく。 
形式としては典型的な回心の物語をなぞりながら、そこに現代的な諦観が加えられている。派手な場面はないし内容もおおむねにおいて地味ではあるが、カラフルな人物配置が楽しいし粘り強い演出が心地よい。視覚的にもきわめて豊かな大作であり、再現されたサライの街並みやモンゴル人の風俗、習慣などは実に見ごたえがある。 


Tetsuya Sato

2013年4月23日火曜日

モンゴル

モンゴル
Mongol
2007年 ドイツ/カザフスタン/ロシア 125分
監督・脚本:セルゲイ・ボドロフ

12世紀のモンゴル。九歳のテムジンはひとつ年上のポルテを許婚に選び、五年後の結婚を約束するが、その直後に父親イェスゲイがタタールの酒にあたって死に、テムジンがハーンの地位を受け継ぐものの、九歳の権威を認めないタルグタイによって財産を奪われ、命を狙われることになる。やがてテムジンは同年代のジャムカと出会って盟友の絆を結び、成長してポルテを妻に迎えるが、それを知ったメルキト族の一団が現われ、つまりメルキト族の男はかつてイェスゲイに妻を奪われたことがあったので、イェスゲイの息子から妻を奪い取る。テムジンはポルテを奪い返すためにジャムカの助力を求め、女のためにモンゴルでは戦争をしないというジャムカの主張を退けてメルキトを攻撃、ポルテを救出する。このときのテムジンのふるまいに感じ入った数人がジャムカの配下から離れ、さらにジャムカの弟がテムジンから馬を盗もうとして殺されるので、ジャムカとテムジンは敵対することになり、テムジンはジャムカと戦うものの捕虜となってタングートへ奴隷に売られ、数年の後、ポルテによって救われるとモンゴルへ戻り、いまや大軍を率いるジャムカと対決する。
テムジンが浅野忠信。撮影は全体に美しく、戦闘シーンはかなりのもので、殺陣のバリエーションにも工夫がある。絵に迫力と勢いがあり、素材に対する作り手のこだわりと誠実さが見えるとすれば、語り口の多少の不器用さもそれほどの瑕疵にはなっていない。



Tetsuya Sato

2013年4月22日月曜日

ジンギスカン

ジンギスカン
Genghis Khan
1965年 イギリス/西ドイツ/ユーゴスラビア/アメリカ 124分
監督:ヘンリー・レヴィン

メルキト族を率いるジャムカはエスゲイの部族を襲撃し、エスゲイを四つ裂きにして殺した上に、その子テムジンに巨大な首かせをはめて奴隷にする。テムジンは首かせをはめた状態で成年に達し、ふとしたことから自由を得ると仲間を集めて族長となり、ジャムカがすでに自分の妻と見なしていたボルテをさらってきて妻とする。そこでジャムカはボルテをさらって自分の天幕に連れ込むが、テムジンは一族とともにメルキト族に襲撃を加え、ボルテを救出したあとは報復を恐れて東を目指し、そこで中国の高官カム・リンと出会って中国の皇帝に迎え入れられる。その待遇は事実上の捕虜であったが、満州族が中国辺境を侵すと軍を預かって出撃し、蛮族を撃退した上にジャムカまでを捕えて戻ると皇帝からジンギスカンの名を与えられる。ところでテムジンの心は最初からモンゴル民族の統一にあり、ジャムカを殺さずにしておいたのもメルキト族との共同を考えてのことであったが、ジャムカは同盟を拒んでテムジンの手を逃れ、テムジンもまた中国の皇帝を殺害してモンゴルへ脱出、いきなり世界征服の大事業にとりかかり、ホラズムの王とともに反撃に出てきたジャムカを一騎打ちで倒したあとは、戦いで得た傷によって命を落とす。
あいにくとモンゴル史はまるで知らないけれど、たぶん内容はうそ八百。ジャムカ(劇中ではジャムーガ)はメルキト族ではなかったような気がするし、妻ボルテ(劇中ではボルテイ)がまさか金髪碧眼の美女だったということもないであろう。テムジンが変な髪形をしたオマー・シャリフ、宿敵ジャムカは例によってスティーブン・ボイド、テムジンの仲間になるのがテリー・サヴァラス、インド帰りの中国高官がジェームズ・メイスンで、これが常に東洋的な薄笑いを浮かべていて、しかも出っ歯なのである。万里の長城は絵で書いてあって、その先もいったいどこの中国なんだ? という感じで、北京の都というのが書き割りのチャイナタウンか立ち腐れのテーマパークかといういかがわしさで、風俗は寄せ集めてきたような清朝風。満州族が攻めてきても慌てなかったのはそのためであろう。皇帝はイギリスの名脇役ロバート・モーレーで、これは付け爪をつけていた。とどめにホラズムの王の役でイーライ・ウォラックが嬉しそうに登場し、これもなんだか怪しい格好をしていたのである。全編、学芸会、想像力と数百円(製作費が)という感じの安っぽさで、そこへ二流監督ヘンリー・ラヴィンの力の抜けた演出がなんとも言えない味わいを与えている。正真正銘の駄作だが、その駄作ぶりが笑えるところはこの映画の取り柄であろう。ロケはおそらくユーゴスラビア(当時)で、そのためであろう、馬は豊富に登場する。



ジンギスカン [VHS]
Tetsuya Sato

2013年4月20日土曜日

リンカーン

リンカーン
Lincoln
2012年 アメリカ 150分
監督:スティーヴン・スピルバーグ

南北戦争末期の1965年1月、南部連合が停戦交渉の開始を望んでいたころ、そのまま停戦に進んで戦争が終われば奴隷解放宣言が単なる宣言に終わって形骸化する可能性を危惧するリンカーンは宣言に法的な裏付けを与えるために憲法修正13条を下院に提出して停戦前の可決を目指すが、そのためには共和党急進派の切り崩し、民主党の取り込みが必要であったので、相手によって声色を変えながら妥協を求め、あるいは甘言で釣り、ロビイストを動かし、時間を稼ぐために南部から訪れた停戦交渉団の存在を隠蔽し、停戦交渉団のワシントン入りを阻み、つまり手段を選ばずに多数派工作を進めて採決にのぞむ。 
リンカーンに扮したダニエル・デイ=ルイスのなりきりぶりはたいへんなもので、リンカーンの表情の背後にたまに素のままのダニエル・デイ=ルイスが見えたりすると、ちょっとびっくりしたりする。急進派議員スティーブンスを演じたトミー・リー・ジョーンズは実に心地よく存在感を発揮していて、これは素朴に見ごたえがあった。一方、ロバート・リンカーンを演じたジョセフ・ゴードン=レヴィットはなぜジョゼフ・ゴードン=レヴィットなのか、ちょっとわからなかったし、リンカーン夫人を演じたサリー・フィールドはいくらか場違いな感じがした。想定されているキャラクターに対してサリー・フィールドのキャラクターが社会的な強度を備えているからであろう。
いわゆる南北戦争の場面は冒頭だけで、あとはほぼ全編が議会工作とその周辺状況に絞られていくが、政治家としてのリンカーンの行動の隙間にはアメリカ史的文脈から決して無視できない、と推定されるリンカーン神話が挿入されていて、この構成が必ずしもうまく消化されていないところにおそらくこの映画の難点がある。作り手の関心の所在にかかわる問題なのかもしれないが、明確に時代色を帯びた議会工作の面白さに比べると神話として提示されるリンカーンはどうかすると取ってつけたようであり、退屈さは否めない。 



Tetsuya Sato

ファイナル・ソルジャー

ファイナル・ソルジャー
River Queen
2005年 イギリス/ニュージーランド 114分
監督・脚本:ヴィンセント・ウォード

1854年のニュージーランド。軍医の娘サラ・オブライエンはマオリ族の青年トミーと出会って恋に落ち、トミーの死後、父親の反対を押し切ってトミーの子を出産する。
サラはこの子供を溺愛するが、6年後、トミーの父親ランギが現われて子供をマオリの村に連れ去ってしまう。サラは子供を捜し続け、そのあいだにイギリスはマオリの領域に軍を進め、戦闘のさなかにランギは死に、その復讐を酋長のテー・カイ・ポーが受け継ぐと、イギリス軍の前進基地は奇襲にあって壊滅し、サラの父親は国外に逃れ、サラはニュージーランドにとどまって軍医の助手に徴用されるが、そこへ唐突に現われたマオリの青年ウィレムに懇願されて川の上流はるかに隠されたマオリの村を訪れる。それというのも酋長テー・カイ・ポーがインフルエンザで死に掛けていたからであったが、酋長はサラの看護で回復し、サラはさらわれた子供と再会するが、子供はすっかりマオリの血に染まり、サラとともに帰ることを拒絶する。
その頃、イギリス軍はマオリの村に向かって進撃を続けていたが、進撃自体が実はマオリの罠であったため、側面から攻撃を受け、命令を撹乱され、大打撃を受けて撤退する。この戦闘でサラの友人であるアイルランド人兵士のドイルが重傷を負い、サラはドイルを送ってイギリス軍の基地に戻るが、イギリス軍の指揮官からマオリとの関係を非難されると、重傷を負ったままのドイルを連れて隠れ家に逃れ、そこへ唐突に現われたウィレムと関係を結び、戻ってくるとドイルが息絶えている。
一方、テー・カイ・ポーは抗戦のための軍勢を集め、イギリス軍は制圧のために出動し、サラもまた軍医の助手として同行する。このときマオリの元に残してきた息子がイギリス軍の捕虜となって命を奪われそうになるが、そこへ唐突に現われたウィレムに救われ、サラが騒いで双方の軍勢が発砲を始め(マオリ族は砲撃もする)、戦闘のなかをサラと息子、ウィレムが逃れ、そのあいだにテー・カイ・ポーが同盟軍の酋長の妻と関係を結んだためにマオリの戦線は崩壊し、マオリはその責任をサラに問い、サラはマオリの一員となることを決意して顎にマオリの刺青を刻み、もう何を考えているんだかさっぱりわからないけれど、川で厳かに沐浴などをしているところをイギリス側のマオリに狙撃される。サラの血が川に流されるが、それでサラが死んだわけではなく、ウィレムと所帯を持って子供と一緒に幸せに暮らしました、という話である。
いちおう歴史的な状況を扱ってはいるものの、視線はひたすらにヒロインにすりより、しかもこのヒロインは愛情の対象にいつもぶれがあり、目の前にいる相手にはたいていの場合、関心がなくて、いない相手を探している。この得体の知れないとめどのなさに何か絵に描いたような情動がどうやら隠されているようで、そこに共感することを前提にしないとまともに眺めているのは少々つらい(つまり、つらかった)。
どうにも落ち着かない目をしたサマンサ・モートンはこのヒロインに適役であった。ほかにヒロインの父親役でスティーブン・リア、アイルランド人兵士でキーファー・サザーランドが顔を出している。撮影はひたすらに美しく、ニュージーランドの山に挟まれた川の流れ、イギリス軍のわびしげな基地、幻想的なマオリの村と見ごたえのある絵が登場するが、そこに心象描写のような映像がかなり執拗に織り込まれ、これもちょっとうんざりする。美術、衣装などの水準もきわめて高く、戦闘シーンもそれなりに迫力があるので、映画本体が別物であったらもっとよかったような気がするのである。 




Tetsuya Sato

2013年4月19日金曜日

アドルフの画集

アドルフの画集
Max
2002年 ハンガリー・カナダ・イギリス 108分
監督・脚本:メノ・メイエス

1918年のミュンヘン。イープルの戦いで右腕を失ったマックス・ロスマンは古びた機関車工場を改造して画商を営んでいる。それもただの画商ではなくて、いきなりジョージ・グロスやエルンストの個展を開けるような画商なのである。そのマックス・ロスマンはある日、軍用外套をまとった小男の伍長アドルフ・ヒトラーと出会い、その作品を見て未来派に分類し、作者の肉声が聞こえてこない、もっと作品に自分をぶつけるんだと励ますが、最初の段階で批判を受けたことでヒトラーは自信を失い、画商に委託した作品が売れないまま手元に戻されたことで傷ついて、やがて画家の道からはずれ、パフォーマンス・アーティストとしての才能を開花させていく。
画家としてのヒトラーを主題にした風変わりな作品である。監督のメノ・メイエスは脚本家出身(『マーシャル・ロー』)。 芸術家や画商、あるいは観客の習性をそれぞれにうまく定着させて、その目配りのよさが面白い。つまり画家は画家らしく、画商が画商らしく、斜めに描かれているのである。美術なども凝っていて、実に地味な映画ではあるが、画面から目が離せなかった。一つだけ難点を挙げれば、ナチズムとの関わりを放置して済ませようとしたことであろう。デザイン面でもここだけ、身を引いたような痕跡が見えるのである。いっそ大きな改変を加えて、ハッピーエンドにするくらいの思いきりはほしかった。

Tetsuya Sato

2013年4月18日木曜日

アレクサンドリア

アレクサンドリア
Agora
2009年 スペイン 127分
監督:アレハンドロ・アメナーバル

テオンの娘ヒュパティアがアレクサンドリアの図書館で学生に教えていたころ、キリスト教徒の数が増えて異教に対する弾圧が強まり、キリスト教徒が異教の神々を侮辱すると図書館はキリスト教徒への報復をおこない、キリスト教徒は数を頼みに図書館を包囲し、テオドシウス一世の勅令によって図書館は破壊され、多くの者がキリスト教に転向し、それから数年後、アレクサンドリアの主教がキュリロスに変わると異教に対する弾圧が激しさを増し、ユダヤ人が追放され、事実上の教権政治が確立され、自宅にこもって地球の軌道を調べていたヒュパティアは庇護を失って教会の兵士に捕らえられる。
題材としては面白いし、内容もそれなりに面白いが、よくできたテレビ映画という水準であろう。ヒュパティアは哲学者として登場するものの、キリスト教の不安定な教権に対置される単純な表象として扱われ、思索的な面でいかなる対立があったのかは一度も示されることがない。わからないところではあるものの、ヒュパティアを持ち出すのであれば、まずそこを作り込むべきではなかったか。それができないのであれば、ヒュパティアをもっと後景に置くべきであった。
ヒュパティアがレイチェル・ワイズ。演出とはいえ、ヒュパティアの最期をきれいにかたづけすぎている。人物造形に単純さが目立ち、ダイアログに弱さが目立つ。ときどき衛星高度からアレキサンドリアを俯瞰したり、月よりも遠い場所から地球を眺めたりするが、意味がよくわからない。 




Tetsuya Sato

2013年4月17日水曜日

終着駅 トルストイ最後の旅

終着駅 トルストイ最後の旅
The Last Station
2009年 ドイツ/ロシア/イギリス 112分
監督:マイケル・ホフマン

トルストイの偶像化をたくらむトルストイ主義者のチェルトコフはトルストイ主義者の青年ワレンチン・ブルガーコフをトルストイの秘書に任命するとトルストイ伯爵夫人を敵視して伯爵夫人ソフィアの言動を監視するように要求し、ワレンチン・ブルガーコフがヤースナヤ・ポリャーナを訪れると伯爵の屋敷の前ではカメラがまわり、会話はつねに記録されているという有様で、チェルトコフを敵視する伯爵夫人はチェルトコフが夫に対して作品の著作権を放棄するように求めていると知って興奮し、伯爵本人は農民のかっこうをして粗末な寝台で休息を取り、トルストイ主義者の村では愛が演出される一方で性的交合が抑圧を受け、ワレンチン・ブルガーコフは自我と主義がからまる場所で緊張してくしゃみを繰り返し、妻が与える緊張に耐えられなくなったトルストイは深夜自宅から逃れて旅に出て、わざとらしく三等に乗ったせいであろう、ロシア南部のアスターポヴォで病に倒れ、駆けつけた伯爵夫人に看取られて生涯を終える。
淡々としているが、バランスの取れた構成とていねいな演出が好ましい。チェルトコフがポール・ジアマッティ。ヘレン・ミレンはトルストイ伯爵夫人を熱演し、クリストファー・プラマーの老トルストイぶりは見ごたえがある。 





Tetsuya Sato

2013年4月16日火曜日

テス

テス
Tess
1979年 フランス/イギリス 171分
監督:ロマン・ポランスキー

マーロット村のジョン・ダービフィールドは自分が名門ダーバヴィルの直系の末裔であることを知らされ、ダーバヴィルを名乗る金持ちの家に娘テスを親戚として送り込むが、その家はダーバヴィルの家名を金で買っただけで、それでもその家の息子アレック・ダーバヴィルはテスに支援を約束し、テスを雇い入れて情婦にするので、アレックを嫌ったテスはダーバヴィルの家から飛び出して実家に戻り、そこでアレックの子供を産み落とし、子の死に先立ってみずから洗礼をほどこすが、教会が亡骸の受け入れを拒むので教会を呪い、酪農家のところへ奉公へ出て、そこでエンジェル・クレアと恋に落ちて結婚するが、テスの過去を知ったエンジェル・クレアはテスを見捨ててブラジルへ旅立ち、テスは農場の下働きをしながら糊口をしのぎ、やがて父の死によって家族が家を失うと、ふたたび現われたアレック・ダーバヴィルが救いの手を差し伸べるので、テスはアレックの事実上の妻となり、そこへブラジルで失敗したエンジェル・クレアが心を入れ替えて帰国して、妻の姿を探し求め、ついにつきとめてテスの前に現われて許しを請うと、テスはエンジェル・クレアを追い出してから決定的な行動に出る。
濃密に再現された、言わばハーディ的な空間がきわめて好ましい作品であり、撮影は美しく、細部にこだわりが見え、そして当然ながらナスターシャ・キンスキーが美しい。一方、エンジェル・クレアを演じるピーター・ファースの魅力の乏しさと、アレックを演じるリー・ローソンの、言わばあたりまえな男ぶりが対照的で、ただ単に画面を見ていると、テスの選択に首をかしげたくなるのである。 




Tetsuya Sato

2013年4月15日月曜日

悪女

悪女
Vanity Fair
2004年 イギリス/アメリカ 141分
監督:ミーラー・ナーイル

不安になるほどぞんざいな邦題がついているけど、サッカレー『虚栄の市』の映画化。全六十七章、岩波文庫版(新訳)で全四巻、厚さ八センチになる分量を大幅に刈り込み、適当に脚色している。
監督が『モンスーン・ウェディング』のミーラー・ナーイルと聞いて、それでまったく期待していなかったせいもあるが、そう格別ひどい出来ではない。例によって細部へのこだわりは見ることができたし、登場人物などは大幅に割愛されているものの、いちおうやるべきことはやっていた。ただ、原作の膨大なナレーションをことごとく落としているために、コミカルな要素は著しく後退し、人物の解釈は浅薄になり、なにやら深刻でめそめそした部分が目立つ結果になっている。
美術、衣装は水準をクリアしているが、カメラワークは全体に雑。あの時代に未婚の女性が髪を整えず、ボンネットもつけずに昼間からうろついているのは変であろう。要所にナレーションを挟み込んで、余計な心理描写などは割愛したほうが、もっと面白く、小気味よくなったはずである。リース・ウィザースプーンは見た目にただもう蓮っ葉すぎて、ベッキー・シャープには見えなかった。与えられているキャラクターも異なっていて、原作のベッキー・シャープに比べると、この映画のベッキー・シャープはかなり小物である。ちなみにわたしのイメージではこの役はジュヌビエーヴ・ブジョルドがふさわしい(昔なら)。それからモラ・ガレイもアミリーア・セドリに見えなかったし、スタイン侯爵がガブリエル・バーンというのもよくわからない(もっと怖そうな爺さんでなければならないのである)。そのスタイン侯爵の夜会でおこなわれるシャレードがなぜかいきなりマサラ・ムービーになって踊り出すあたりはさすがにインドの監督であると驚いた。



Tetsuya Sato

2013年4月14日日曜日

ジェーン・エア

ジェーン・エア
Jane Eyre
2011年 イギリス/アメリカ 120分
監督:キャリー・ジョージ・フクナガ

孤児となったジェーン・エアは叔母のリード夫人に養育されていたが、ジェーン・エアを嫌ったリード夫人によってローウッドの施設に送られ、そこで教育を終えるとそのまま施設の教師となり、それからソーンフィールド屋敷の家庭教師として招かれて当主のロチェスター氏と出会い、ジェーン・エアに愛情を感じたロチェスター氏はジェーン・エアに求婚するが、ロチェスター氏にはすでに妻がいて、しかも狂人となって屋敷に幽閉されていることが暴露され、事実に衝撃を受けたジェーン・エアは屋敷から飛び出して荒れ野をさまよい、行き倒れとなりかけたところで牧師のセント・ジョンに救われ、セント・ジョンの紹介で村の学校の教師となり、そうしていくうちに今度はセント・ジョンに求婚されるので、ジェーン・エアはセント・ジョンの求婚を拒み、セント・ジョンの前から逃げ出してソーンフィールドの屋敷を訪れると屋敷は焼け落ちていて、家政婦の言葉からロチェスター夫人が火事で亡くなったことを知ったジェーン・エアは火事のせいで盲目隻腕となったロチェスター氏の前に立ち、それから手を差し伸べる。 
ジェーン・エアを演じたミア・ワシコウスカが地味な顔立ちの下に多彩な表情を隠していて、この演技がすばらしい。ロチェスターを演じたマイケル・ファスベンダーも忍耐強い演技でこの混乱したキャラクターに整合性を与えている。セント・ジョンがジェイミー・ベル、ロチェスター氏の家政婦頭がジュディ・デンチ、監督は『闇の列車、光の旅』のキャリー・ジョージ・フクナガで、くすんだ光をまとう静謐の底に沈んだヒロインの感情をたくみにすくい上げる手つきにはただただ舌を巻いて見入っていた。演出、演技、撮影、時代性を帯びた人物の所作、よどみのない文体と、どこを取っても第一級の作品で、ただ、幼稚な人形芝居のような原作だけはやはりどうにもいただけない。 



Tetsuya Sato

2013年4月13日土曜日

戦革機銃隊1945

戦革機銃隊1945
Straight Into Darkness
2004年 アメリカ 95分
監督:ジェフ・バー

1945年の西部戦線で空挺部隊の兵士が民間人を誤って殺害してトラウマを受け、戦前のフラッシュバックに逃げ込みながら無断離隊しているところを憲兵に見つかり、もう一人の脱走者とともに護送されているところで乗っているジープが地雷を踏んで憲兵が死ぬのでもう一人の脱走者とともに森へ逃れ、廃墟と化した無人の町や虐殺がおこなわれた村などを抜けて荒れ野にぽつんと建っている建物を見つけてそこへもぐり、ひとの気配を感じて待ち伏せたところが数で圧倒されて捕えられ、障害者の孤児ばかりを集めた孤児院を母体とするレジスタンス組織の拠点にいたことが判明し、そうしているとそこへ戦車を先頭に立ててドイツ軍一個小隊ほどが現われるので、二人の脱走兵は覚悟を決めて子供たちと一緒にドイツ軍との戦いを始める。
状況が変わる中盤過ぎまでは脱走兵二人が森をとぼとぼ歩いているだけで、心象などをフラッシュバックで織り込んで見せはするものの多少の退屈さは否めない。戦闘シーンも格別の迫力があるわけではないが、とりあえずは鑑賞に耐える水準にある。
『戦革機銃隊』というけったいな邦題はまったく意味がわからないが、"Straight Into Darkness"という原題に偽りはなく、暗澹とした雰囲気が全編にあふれ、ルーマニア・ロケとおぼしき風景はどこまでも陰々滅々としてうんざりするような効果を上げ、低予算ではあるものの一定の造形性をうかがうことは可能であり、戦争のグロテスクな様相はそれなりに表現されていると思う。子供たちを指揮する孤児院の院長役でデヴィッド・ワーナーが顔を出している。 




2013年4月12日金曜日

ラストデイズ・オブ・サードエンパイア

ラストデイズ・オブ・サードエンパイア
Edelweiss Pirates
2004年  ドイツ・スイス・オランダ・ルクセンブルグ 97分
監督:ニコ・フォン・グラッソウ

1943年、爆撃でほとんど瓦礫の山と化したケルン。リプケ家の父親は出征しており、長男も同様に出征して戦死、次男のカールは反ナチ抵抗グループ「エーデルワイス海賊団」の一員として今日もヒトラーユーゲントと戦ったり、連合軍の爆撃が始まると白ペンキを抱えて飛び出していって壁にアジテーションを残したり、といったことをやっていて、三男のいささか愚直なペーターはヒトラーユーゲントに入ってエーデルワイス海賊団を追いかけている。そのエーデルワイス海賊団はある日、負傷した囚人のハンスを拾い上げ、カールが恋焦がれている女性ティリーが看病することになる。ハンスは速やかにティリーと親密になり、それを知ったカールは心中穏やかでないが、このハンスは爆破の技術を持ち、奇妙な行動力があって地下社会とも連絡があり、しかも明らかにぶち切れていて、どうやら個人的な復讐心からゲシュタポ本部の爆破計画を立ち上げるので、エーデルワイス海賊団は自然に陰謀に巻き込まれる。
エーデルワイス海賊団とその周辺のすさんだ空気が半端ではない。泥酔した状態で銃を手にして現われて「ナチ狩りに行こうぜ」と気勢をあげ、車で町を飛ばしながら制服を着た連中に発砲したりする。そうするとナチが頭を抱えて逃げていくのである。ほぼ全編にわたって背景は廃墟、そこをうさんくさい連中がうろうろするあたりの雰囲気はよく出ていたように思うが、やや性急な文体が少々気になった。もう30分くらい長くてもよかったのではあるまいか。 




Tetsuya Sato

2013年4月11日木曜日

スウィング・キッズ

スウィング・キッズ
Swing Kids
1993年 アメリカ 112分
監督:トーマス・カーター

1939年のフランクフルト。バンドがジャズを演奏し、客がジルバを踊るクラブに入り浸っていた若者が時代の圧力を受けてヒトラーユーゲントに入団し、ひとりはナチズムへ呑み込まれ、もうひとりは激しく反発する。反発するのはけっこうだけど、その結果として後先考えずにまたスウィングする、というのはどうかと思う。それなりにまじめに作られた作品だが、機械的な感じで適当に散らされた登場人物の設定ばかりが妙に目立ち、あるべき奥行きが見えてこない。監督が『コーチ・カーター』のトーマス・カーターだと考えるとなんとなく納得できる仕上がりではある。ちなみにナチズムに呑み込まれてしまう医者の息子がクリスチャン・ベイルであった。


Tetsuya Sato

2013年4月10日水曜日

ナポラ

ナポラ
NaPolA
2004年 ドイツ 110分
監督:デニス・ガンゼル

1942年。労働者を父親に持ちベルリンで下働きをしている少年フリードリヒ・ワイマーはボクサーとしての才能を認められ、ナチスドイツ政権下で設立された国家エリート養成機関ナポラへの入学を許可される。父親の反対を押し切って入学したフリードリヒ・ワイマーは同世代の少年たちと寮生活を送りながらナチスドイツ的な教育を受け、ボクシングの練習に励み、ナチの大管区長を父親に持つ心やさしい少年と友情を育んでいくが、そのうちに恐ろしい体験をすることになってこの時代の化け物じみた側面に気づいていく。
非常にまじめに作られた作品でなかなかに見ごたえがあったが、一年も経たないうちに同室6名のうちの2名が死亡、というのはやりすぎではあるまいか。見ているうちに同じような学校を前にどこかで見たような気がしてきたが、ほかでもないホグワーツであった。主旨はだいぶ違っているけど、どはずれた場所のお城にあるところと子供に危険を強いるところはよく似ている。 




Tetsuya Sato

2013年4月9日火曜日

裂けた鉤十字/ローマの虐殺

裂けた鉤十字/ローマの虐殺(1973)
Rappresaglia
監督:ジョルジ・パン・コスマトス

1944年のローマ。連合軍がすでにアンツィオに上陸し、ローマ解放が間近に迫っていたころ、パルチザンがローマ市内で爆弾を使って親衛隊兵士三十人ほどを殺害する。この惨状を見たドイツ側の将軍は犠牲者一人に対して五十人のイタリア人を報復として処刑すべきだと主張するが、親衛隊のカプラー大佐はこれに反対し、ベルリンも大佐の意見を入れて処刑に反対する(なにしろローマであって、ワルシャワではないのだから)。しかしこれに釈然としない将軍はベルリンを口説いて犠牲者一人に対して十人を処刑する線で話をまとめ、時間制限付きの命令を受けたカプラー大佐は死刑囚などから対象者を選抜しようと試みるが、三百人を超えるリストを作るのはなかなかに容易なことではない。しかもそこへドイツ側の計画を知ったアントネリ神父が現われてカプラー大佐の良心に訴え、カプラー大佐の同僚も問題を回避するために法王を動かそうと画策し、銃殺を実行するはずの部隊は命令を拒絶し、国防軍も兵士の派遣を断り、関係者のほぼ全員がまったく気乗りしないという状況で時間切れとなって虐殺が起こる。
カプラー大佐がリチャード・バートン、アントネリ神父がマルチェロ・マストロヤンニ。ダイアログの量を惜しまずに正直に作られており、ディスカッションドラマとして成功している。状況にうんざりしている生真面目な官僚をリチャード・バートンが好演していた。



Tetsuya Sato

2013年4月8日月曜日

プレミアム・ラッシュ

プレミアム・ラッシュ
Premium Rush
2012年 アメリカ 91分
監督:デヴィッド・コープ

ニューヨークでメッセンジャーをしているワイリーはある日の午後、友人から封筒を中華街まで運ぶ仕事を引き受けるが、そこへ人相の悪い刑事が現われて封筒をよこせと脅すので、大学出でロースクールのドロップアウトでスーツが嫌いで自転車が好きで、固定ギアでノーブレーキの自転車にまたがって危険運転を顧みないワイリーは刑事を振り切って町を突っ走り、そうすると刑事が車で追ってくるし、ニューヨーク市警の自転車警官にも追われるし、ほとんど死にかけるし、ということで配達をあきらめて封筒を発送元に戻すと刑事が罠をしかけて封筒が自分の手に入るように仕組み、封筒の持ち主から事情を知ったワイリーは封筒を取り戻すためにまたしても町を突っ走る。
一瞬でも気を抜くと事故を起こすような自転車の走りっぷりがすごいし、そのめまぐるしい走りをとらえた撮影もすごい。危険を控えた瞬間に頭のなかでシミュレーションを繰り返したり、数時間の枠のなかで時間軸を交錯させたり、といった構成にはスタイルがうかがえるものの、リズムが途切れるタイミングがいくらかあって、まだ磨きようがあるのではないかと感じたが、力作なのは間違いないと思う。主役のジョセフ・ゴードン=レヴィットはあの細いからだで熱演していた。背景のニューヨークの街並みがまた魅力的で、自転車目線でとらえられた風景が不思議なくらいに目新しい。 


Tetsuya Sato

2013年4月7日日曜日

エクスペンダブルズ2

エクスペンダブルズ2
The Expendables 2
2012年 アメリカ 102分
監督:サイモン・ウエスト

ブルース・ウィリスの要求でアルバニア山中におもむいたシルヴェスター・スタローン一行は墜落した機体からケースを回収することに成功するが、そこに現われたジャン=クロード・ヴァン・ダム一行にケースを奪われた上に仲間を殺されるので、復讐を誓ったスタローン一行はケースから出ている信号を追って東欧某所の山中へ進み、ジャン=クロード・ヴァン・ダムが村人を虐げながらプルトニウムを盗もうとしている現場へ踏み込んで殺戮をおこない、そうするとジャン=クロード・ヴァン・ダム一行が盗んだプルトニウムをトラックに積み込んで逃げ出すのでアーノルド・シュワルツェネッガー、ブルース・ウィリスなどの加勢を得てあとを追いかけ、ジャン=クロード・ヴァン・ダム一行が空港へ逃げ込むとスタローン一行はそこでも殺戮を繰り広げ、シュワルツェネッガーもブルース・ウィリスも撃ちまくり、気がつくとチャック・ノリスも登場して一緒になって撃っている。
プロットが邪魔にしかならなかった一作目に比べるとプロットにあたる部分がほぼ排除されていて、状況を進行させる最小限の小道すらどうかすると飛び跳ねているという有様で、つまり非常に雑な映画ではあるけれど、余計なことはなにも気にしないで大暴れに徹するという姿勢は評価に値すると思うし、冒頭のネパールのシーンからとにかくやる気は伝わってきて、これはそれなりに楽しめた。今回はジェット・リーが早々と里帰りしてしまうので肉弾戦はもっぱらジェイソン・ステイサムが担当しているが、このひとのからだの動きはあいかわらずシャープで美しい。 



Tetsuya Sato

2013年4月6日土曜日

エクスペンダブルズ

エクスペンダブルズ
The Expendables
2009年 アメリカ 103分
監督:シルヴェスター・スタローン

場末の店に中年から初老のバイカーがたむろする店があり、バイカーたちは依頼を受けると武器を取って飛行艇に乗り込み、傭兵のようなことをする。ということで仕事を引き受けて中米の島へいってみると、そこでは将軍が独裁を敷いているが、その将軍も実は悪いアメリカ人にあやつられていて、将軍の娘は島の現状に心を痛め、悪いアメリカ人が将軍の娘を捕えると、娘を気遣う傭兵が仲間とともに殴り込みをかけ、悪いアメリカ人も将軍のところの兵士も皆殺しにする。
おそろしく締りの悪いプロットと登場人物の消化の悪さはビデオスルーされる種類のアクション映画を思わせる(というか、悪役がエリック・ロバーツだということは、つまりそういうことなのであろう)。アクションシーンの演出は派手だが、派手ならいいだろうという種類の派手さであり、考えなしに打ち上げられる打ち上げ花火のようなもので、見ていて面白いものではない(MPS AA-12フルオートショットガンのフルオートぶりはなかなかのものであったとはいえ)。異様なキャスティングを採用して、それぞれの役者に見せ場を与えて、という割り切った仕組みは理解できるが、キャラクターとしての造形をはぶいてアクションをさせるだけであれば、このキャスティングも意味はない。もしかしたらニュートラルな状態で投げ出して観客がキャラクターを補完するという仕組みなのかもしれないが、だとすれば手間を省きすぎであろう。 



Tetsuya Sato

2013年4月5日金曜日

アンダーワールド 覚醒

アンダーワールド 覚醒
Underworld: Awakening
2012年 アメリカ 88分
監督:モンス・モーリンド、ビョルン・スタイン

ヴァンパイアとライカンの存在はついに人類の知るところとなり、人類はヴァンパイアとライカンを地上から抹殺しようとたくらみ、セリーンはマイケルとともに逃走を試みるが軍隊に囲まれて爆発に巻き込まれ、気がついてみると研究施設で冷凍されていて、マイケルを探して施設から脱出して冷凍されているあいだに12年が経過していることを知り、共有している視界をマイケルのものだと信じて追っていくと見知らぬ少女がそこにいて、ライカンが襲いかかってきたところをヴァンパイアの青年に助けられ、少女とともにヴァンパイアの一族の隠れ家を訪れ、少女が自分の娘であってマイケルと同様に混血であることが判明し、そこへライカンが多数で襲いかかって抵抗するヴァンパイアを殺戮して少女を奪い去るのでセリーヌは娘を救うために研究施設に殴り込む。ヴァンパイアが人類を恐れて地下にもぐっているあいだにライカンは製薬会社を隠れ蓑にして繁栄し、銀に対する免疫をつけ、さらには巨大化までしていたのである。
冒頭の人類による殲滅作戦ぶりがなかなかにすごい。プロットはご都合主義と言うにしてもやや破綻気味だが、アクションシーンはおおむねにおいて迫力があり、演出がうまいのか、ケイト・ベッキンセイルのアクションもバランスが取れていて、もたついたところがあまり見えない。悪役がスティーブン・レイというのはちょっとうれしい。




Tetsuya Sato

2013年4月4日木曜日

アンダーワールド:ビギンズ

アンダーワールド:ビギンズ
Underworld: Rise of the Lycans
2009年 アメリカ/ニュージーランド 90分
監督:パトリック・タトポロス

ヴァンパイアの長老ビクターはライカンのルシアスを使って人間からライカンの群れを作り出し、奴隷として使っていたが、成長したルシアスはビクターの娘ソーニャと関係を持ち、事実を知ったビクターはルシアスを責めるが、ルシアスはビクターの城から脱出してライカンの仲間と人間、さらにはウィリアムの一族を糾合して反乱軍を結成し、ソーニャを連れ出すために単身ビクターの城に潜入するが、ソーニャはビクターの手で処刑され、絶望するルシアスもまた瀕死の重傷を負うが、そこへ反乱軍が駆けつけてビクターの城を落とし、ビクターはルシアスと対決して敗北する。
時代は不明。視覚的にはそれなりにまとめられてはいるものの、パトリック・タトポロスの演出は単調で面白みがない。このシリーズの特徴としてヴァンパイアは威張っている割にはひどく弱いので、なぜそれまで支配ができていたのか、やはり首をひねることになるのである。 


Tetsuya Sato

2013年4月3日水曜日

アンダーワールド:エボリューション

アンダーワールド:エボリューション
Underworld: Evolution
2006年 アメリカ 106分
監督:レン・ワイズマン

一作目の結末でヴァンパイアと狼男のハイブリッドが誕生し、ヴァンパイア側の処刑人セリーンはこのハイブリッド男マイケルとともに追っ手をかわしている。一方、ヴァンパイア一味のほうでは元祖ヴァンパイアのマーカスが休眠から醒め、裏切り者のクレイヴンをさっさと始末すると本人にしかわからない理由でセリーンたちを追いかけてくる。そうしているあいだに周辺には謎の閣下に率いられた武装集団が金のかかった装備で出没し、セリーンの手中には事件を解く謎の鍵があり、謎の閣下の手中にも似たような形の鍵があり、ヴァンパイア一族の秘密を握っている男もどこかにひそんでいるようで、つまり、そういう謎が謎を呼ぶ仕組みはあまりわたしの好みではない。
一作目同様、もったいぶった展開で筋書きは中盤まで要領を得ないものの、とりあえず十三世紀初頭にあったそもそもの事情は判明するし、かたやヴァンパイア、かたや狼男でかれこれ八百年間も人類に迷惑をかけ続けている双子の兄弟には父親がちゃんといて、こちらはこちらで家名に泥を塗るまいと八百年間も息子たちの不始末の後片付けを続けているとかいうばかばかしい話は悪くない。ケイト・ベッキンセイルはあいかわらず美しいしあいかわらずアクション向きではないものの、演出の工夫があって一作目ほど不自然な感じにはなっていない。全体として演出力は向上しており、無駄も減っている。ハンガリーにはまったく行かずにバンクーバー周辺でロケされた東欧、FANTASY II製作とおぼしきミニチュアがいい感じ。 




Tetsuya Sato