2018年8月7日火曜日

スターリンの葬送狂騒曲

スターリンの葬送狂騒曲
The Death of Stalin
2017 フランス/イギリス/ベルギー/カナダ 107分

スターリンの死からベリヤの失脚まで。監督はイタリア系スコットランド人のアーマンド・イアヌッチ。アーマンド・イアヌッチといえばTVのコメディシリーズ『Veep/ヴィープ』が有名だが、『Veep/ヴィープ』の(やや度を越した)政治的な皮の薄さがスターリン時代の状況にそのまま転化したものが今作『スターリンの死』だということになると思う。つまりアメリカ初の女性副大統領にしてもスターリンとその周辺にしても単にコメディのためのネタであり、そのコメディは一見したところ政治的な味付けがあるように見えても正体は政治的でも、まして歴史的でもない。この映画の作り手は手にしたネタを面白おかしく見せようとしているだけで、これがさしあたりこの半世紀の出来事であるという認識はあっても、その期間における人類史に対して同時代的な責任を感じていない、と言えばおそらく言い過ぎになるのかもしれないが、その責任の欠如が対象としている時代と向き合う真摯さを失わしめているのは間違いないと考える。対象とすべき存在は記号化されたボケとツッコミのようなものではなく、不気味なほど複雑なものであったはずであるにもかかわらず、つまらないと思ったのか、手にあまると思ったのか(前者であろうと推定している)そこをきれいにスルーしている。はっきり言って不真面目な上に頭が悪い。ほぼ同じ題材を扱っていても、同時代のエピソードをそのまま再現すれば客観的にはコメディになるはずだという認識にもとづいた1983年のイギリス製コメディ『クレムリンの赤いバラ』のほうがはるかにまじめだし、そしてはるかに頭がいいし、それを言えば「スターリンの隠し子」を扱った1996年のオーストラリア映画『革命の子供たち』もかなり頭がいい。そして時代に対して少しでも関心があったならば、やはりほぼ同じ素材を扱ったアンドレイ・コンチャロフスキーの『インナーサークル』を見て、その時代のその場所には人間の手にはあまるほど何か得体の知れない厳かなものがあった(と記憶する人々が実在する)ことを学習しておくべきであった。
スティーヴ・ブシェミのフルシチョフには残念ながら感心しなかった。そもそもフルシチョフに向いているひとではないと思う。サイモン・ラッセル・ビール(『ターザン:REBORN』で武器商人をやっていたひと)のベリヤも同様で、ベリヤとしては声も気配も太すぎる。わたしとしてはボブ・ホスキンスの一人二役というのが好ましかったような気がするが、あいにくとすでに亡くなっている。スターリンの葬儀のシーンはそれなりのスケールがあって見ごたえがあったが、ルビヤンカやグラーグ、NKVDのいわゆる青帽のふるまいや夜間逮捕などに関する一連の描写は「正しくない」。ネタにしているだけだから、しかたなかろう、とは思う。

Tetsuya Sato